謹んで震災のお見舞いを申し上げます。
 
 平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震及び長野県北部 を震源とする地震で被害を受けられ た皆様に心より お見舞い申し上げます。
   私達学校関係者も、千年に一度という大惨事に対して心を一つにして、被災者の方々の今後の救援に取り組
んでいきたいと思っております。
   ─ ─────────────── ─
ー特集ー
東日本大震災被災者の心に響く
松風塾マンドリンコンサート演奏
                             理事長 田澤昭吾

    釜石市の中妻町仮設団地集会所で
      ー被災地応援コンサートー
 


二年半を過ぎようとする9月8日、釜石市中妻町の中妻町仮設団地集会所で、「被災地応援マンドリンコンサート」を開催しました。
  この度のコンサートは、青森県から県下の私立学校に「震災復興支援の体験や被災地の方々との交流を通じ、絆やつながりの大切さを再認識する」という目的で呼びかけられ、計画・実施しました。
 生徒達は、事前に大和山本部で実施してきた過去2年半の被災地復興応援活動の概略を、被災地の写真などを通し学習しました。  
 一行は引率教諭4名を含めると14名で、7日早朝、バスで出発し、夕方、宿泊先の大和山釜石道場に到着しました。
  午後5時からは釜石道場でミニ演奏会を開きました。岩手県内から大和山信者約50名が集まり、生徒達の演奏を鑑賞してくれました。集まった信者さんは、演奏する生徒達の礼儀正しい姿に感激しながら、被災地の主題歌としてNHKが全国放送している「花は咲く」の演奏に涙を流しながら聞き入り、感動の一時でした。 
  8日は、目的の「被災地応援マンドリンコンサート」が中妻町仮設住宅団地集会所で、午前10時、同11時、午後1時からの3回に亘つて開演され、約60名が聞いてくださいました
 中妻町仮設住宅団地には、釜石市で一番最初に設置された仮設住宅団地だったことから、入居者も70代以上の高齢者が多く、中には95歳のご婦人もおられ、「遠い所を来ていただき、ありがとう。コンサートに来て良かったです」と、御礼を述べていました。
 曲目は、みんながよく知っている「チキチキ・バンバン」「ムーン・リバー」「日本の四季に想いをはせて〜四季の歌・花・浜辺の歌・荒城の月〜」「見上げてごらん夜の星を」「管弦楽組曲第三番よりエール(G線上のアリア)」の7曲で、アンコール曲として「花は咲く」「ふるさと」が演奏されました。集まった人達は、知っている曲の演奏に合わせて歌を口ずんだり、涙を流しながら聴いている場面もありました。特に、「ふるさと」の演奏では、女子生徒一人が演奏者の前で唄うと、集まった人達も一緒に唄い、みんなの心が一つになり、真心に包まれました。
   演奏が終わった後、84歳のご婦人は「青春時代が蘇ったような懐かしさが体一杯に広がりました。オードリーヘップバーンのファッションに驚きため息をついた頃、菩提樹は女学校時代の合唱曲としてよく歌いました。どれも、いつでも、いつの間にか自然に口に出る童謡です。本当に、本当に有難うございました。しばらくは淋しさも忘れるでしょう。また、メロンのおいしい事。私には、2日分でした。」と感激した様子を話していました。
 79歳のご婦人は、「遠路雨の中お越し下さいまして、感謝致します。素晴らしい音色に、心が洗われました。秋風と共に一時の贅沢を 『ありがとう』。」と仰っていました。
 72歳のご婦人は、「はじめてマンドリン演奏を聴き、つい歌を口づさむ気持でした。とても良かったです。」と述べていました。
 70代半ばと思われる男性は「ブラボー、ブラボーあるのみだ。ありがとうね」と言って、喜びながら颯爽と去っていきました。皆さんが本当に満足した様子でした。
   3回目の演奏を終えて、バスに乗って帰路に就くとき、生徒達を迎えお世話してくださった仮設住宅の人達と演奏を聞きに来きにきてくださった方々が見送りに来てくれました。催し物があったとき、 集まった人達が見送ってくれたことは、これまでなかったそうです。それほど、生徒達の演奏のまごころが、聞いてくださった方々の心に響き伝わっていったのでしょう。そう思いました。生徒達も精一杯手を振って、別れを惜しんでいました。心のこもった意義在る、「被災地応援マンドリンコンサート」でした。
 上記以外で、演奏会を聞いてくださった方々の感想を紹介します。
・「生の演奏を聞かせて貰えるとは夢にも思っていませんでした。今までのうち最高でした。感謝、感謝です。」                      (77歳の女性)」
・「ラジオから流れてくるステレオ演奏の様で、感動しました。10名だけの演奏でも、こんなに響いてくるのかと感激し、聴いていました。大変良い日でした。ありがとう ございました。」(63歳の女性)
・「始めてマンドリンを聞きました。とてもすばらしかったです。曲は、【花は咲く】【ムーンリバー】【エール】が良かったです。ずっと聞いていたい気分になりました。 いやされました。ありがとうございます。」(50歳の女性)
・「心を打つ演奏をありがとうございました。どうぞ、これからも、多くの人の心を打つ演奏を続けてください。ありがとうございました。」(61歳の女性)
・「生徒さん達の演奏の姿勢がすばらしかった。10名全員が在学中のみならず、生涯の友に なるのが分かる気がしました。今日は、本当にすばらしい音色を心に染めました。」(64 歳 の女性)
・「今日はすばらしい時間を楽しませていただき、本当に心から感動しました。ありがとう ございます。」
                  (71歳の 女性)
・「先生の指揮をよく見ながらの演奏、素晴らしいと思い ました。マンドリン、マンドラ、 ギターも良かったです。心から楽しみました。ありがとうございました。」
                  (80歳の女性)
・「とても楽しかったです」(79歳の女性)
・「釜石までおいでいただき、ありがとうございます。演奏を聞き、心が安らぐことができ ました。」(58歳の女性)
・「遠い所をありがとうごさいます。是非、もう一度聞きた いです。」(74歳の女性)
・「大変良かったです。」(84歳の女性)
・「大変良かったです。」(77歳の女性)
・「今日は楽しかっだです。」(79歳の女性)
        ○           ○
 昼食時には、女子生徒6名と共に、仮設住宅に入居している二人のご婦人が住んでいる住宅を見学させていただきました。その時にお二人から聞いたお話しを紹介します。
 お二方から、3.11のあの津浪で、心に深い悲しみを背負っていることを直接聴きくことが出来ました。その中にあって、お二人は、精一杯、前向きに生きようとしていました。
 お話しされる一言一言からは、生きるという、心の強さと、深さを、強く感じました。
 お聞きしたことを、どう表現すればいいのか、私には的確な言葉が見つかりませんでした。
 浅薄な言葉で申し訳ないと思うのですが、私の力量の範疇で綴った一文を紹介します。
       ○            ○
手芸に願いを込めるKさん(77)
「明日を信じて、希望を失わずに生きています」

 一番最初にKさん(77歳)という、ご主人と、愛犬の3人(?)がお住まいの仮設住宅を訪問しました。そこは、4畳半二間と、四畳半の板の間にキッチン・風呂・台所がある住宅でした。Kさんは、手芸を趣味にし、生きる力にしておりました。部屋の中には、Kさんが作った作品が幾つもありました。生徒達は、クラフトテープを素材にした手編みの敷物を一個ずつ頂戴しました。私も、一個頂戴し、理事長室の机の上にある田澤康三郎先生の小さな胸像の敷物に使っています。
 その手編みの敷物からは、津浪で受けた被災を乗り越えてきた「苦渋の思いが詰まっている」「「Kさんの思いがこもっている」と、感じました。Kさんの、生きようとする強い力が、伝わってくるようでした。瞬間的にそう感じたのです。大切にしなくては、と思いました。
 Kさんは、色々話をしてくれたあとに、「明日を信じて、希望を失わずに生きています」と仰いました。その言葉には、震災の悲しみ全てを飲み込み、それを表に出さずに力強く生きている、という芯の強さが伝わってくる感じでした。千年に一度という大震災で見た地獄絵図、その真っ直中で地獄との闘いを乗り越えてきた本人でなければ醸し出せない人間の強さが、優しい笑顔から伝わってくるようでした。
 Kさんの手編みの作品は、どれも「魂が込められた」もので、被災地への、被災者への、祈りを忘れてはならない、と体感させていただきました。
         ○         ○
「みんなから生きる力を戴いたよ」と
ご主人を津浪で亡くされたAさん(77)


    77歳のAさんは、4畳半の部屋と4畳半の板の間に台所、風呂、トイレがついてある二部屋で単身生活していました。
 Aさんは、釜石市の避難所近くの道路で交通整理していたご主人を、津浪で亡くされました。
 Aさんは、町の民生委員ですので、3.11の当日は、近隣に住む人達を避難所の高台へ逃げるように一軒一軒廻り、声掛けをしていたそうです。しかし、最後の一軒の老人がなかなか説得に応じなかったので、近くの十字路で避難する車の交通整理をしていたご主人に急遽来て貰い、その老人を避難所へ避難するように説得して貰ったそうです。その甲斐あって、その老人は、ようやく説得に応じて避難する様になりました。
 その後、ご主人は、再び車の交通整理のため先ほどの十字路に立ち、渋滞していた車の誘導に取り掛かりました。その最中に津浪が十字路周辺まで押し寄せ、ご主人はその津浪にのみこまれ、後日、丘の上で遺体となって発見されました。
 十字路の道路沿いにあった自宅はもちろん流され、家屋共に家財など全てを失ってしまいました。後日、ご主人が交通整理のボランテイアとして表彰された際に貰った賞品の「竿灯の絵」が額に入ったまま拾われ、Aさんの手許に帰ってきたそうです。その「竿灯の絵」がご主人のたった一つの遺品となり、親戚から戴いたご主人の写真と一緒に仏殿の上に飾られてありました。
  Aさんは、仮設住宅を訪れた生徒達に、ご主人が津波に掠われたことを話してくれました。そして、今も民生委員として中妻町仮設住宅団地の人達の声を聴いて歩き、快適な生活を送れるようにお手伝いしている、と話してくれました。それが「生き残った者の務めだと思ってやらせていただいています」とのことでした。身につまされた話でした。
 生徒は、昼の休憩時間も少なくなってきたので、部屋から集会所へ帰えろうとしてAさんと握手し、御礼を言っていました。生徒達と握手するAさんの目からは、涙が光っていました。孫のような生徒達との触れ合いが嬉しかったのでしょう。Aさんは、涙ぐみながら、「みんなから生きる力を戴いたよ」と、しみじみと生徒に言っていました。その純粋な触れ合いの光景に涙が誘われました。
            ○          ○
被災地の爪痕を聞く  
ー「奇跡の一本松」に希望を託す陸前高田ー

  この度の演奏旅行では、関貴広・大和山大槌支部長(松風塾高校29期生)の案内で、7日午後に陸前高田の津浪の爪痕の様子を見学してきました。
  陸前高田は、2011年3.11東日本大震災で壊滅しました。今もなお、その廃墟は復興が進まない状態でした。
  陸前高田には、三陸海岸に弧を描く約7万本の松林が名勝高田松原として知られ、昔から多くの人々に親しまれ愛されてきた憩いの場がありました。「日本百景」とも言われた白砂青松でした。しかし、この度の震災でその美観を誇る7万本の松林が一本だけ遺してなぎ倒されてしまいました。奇跡的に一本だけ残った松は、「奇跡の一本松」とマスコミで取りあげられ、町の人達はこの「奇跡の一本松」を「希望の一本松」
(写真・下)と呼び、復興の支えと生きる力にし、今では陸前高田の「希望のシンボル」として守られていました。
  その 一本松の海側にある防波堤の水路・水門には、当時、津波で亡くなった遺体が引き潮によって200体とも300体とも言われるほどに積み重なり、それが流されずに積まれていたそうです。その遺体が崩れはじめ、海に流されていったのは、遺体が腐食しはじめたからだとの説明を受けました。この度の震災の凄さを思い知らされる話でした。また、私達が立っていた「奇跡の一本松」前の辺りにも、亡くなった多くの方々の遺体が散らばっていましたとも説明がありました。絶句でした。
 私達は、その「奇跡の一本松」の前で、亡くなった数多の方々のご冥福を祈り、鎮魂の黙祷を心込めて捧げさせていただきました。
  次に、今では更地になっている旅館浮舟周辺に移動して、鎮魂の黙祷を捧げさせていただきました。
           ○       ○

城山公園の「希望の灯り」前で鎮魂黙祷
 
  8日には、演奏会の前に、大槌支部の三浦与志男さんの案内で、被災で更地になっている支部の跡地を視察し、そのあと大槌町の城山公園に移動して「希望の灯り」を見学し、祈りを捧げてきました。
 「希望の灯
(あか)り」は、3.11の大震災で被災した方々に少しでも希望を持って欲しいとの思いで国内外からの寄付のもとに、被災地大槌町の町民と、「特定認定非営利活動法人阪神淡路大震災『1.17希望の灯り』たすきプロジェクト」の協働で作られたものでした。
   この「希望の灯り」は、1995年1.17阪神淡路大震災で被災した人達を励まそうと全国47都道府県から火種が集められ、2000年1月17日に神戸市の東遊園地へ「1.17希望の灯り」として点灯された火を、分灯したものだそうです。
 2012年11月11日に建立されたこの「希望の灯り」の碑文には、「震災が教えてくれた、やさしさ、思いやり、仲間、絆の大切さを忘れることなく、ともに歩んでいきましょう」と書かれていました。 
 「希望の灯り」(写真・上)が建っている城山公園からは、被災地の更地状態の大槌町が一望されました。そして、展望される海の浜辺の向こうには、あの「ひっょこりひょうたん島」のモデルとなった島だと説明された小島が見えました。
  「希望の灯り」の前でも、震災で亡くなられ大槌町の方々の御霊に、生徒達と一緒に真心込めて慰霊の黙祷を捧げさせていただきました。
(神惟霊幸倍坐世 神惟霊幸倍坐世 )
            ○       ○
  震災で亡くなられた方の多くは、「ここまで津浪が来るはずがない」と思っていた方々が多かったそうです。だからこそ、今回の震災を教訓として、「自分で、津浪の際に避難するマニュアルを頭に入れておく事が大切です」と三浦さんは、説明してくれました。
 また、 仮設住宅から市営の住宅に移った人は、国からの補助金が出なくなる制度になっているので、仮設住宅からなかなか引っ越しできないでいる人達も大部いるとも聞いてきました。 
 この他、震災後のガレ地と化した最中に、空き家に入り込み金銭等金目の物を探して持ち去る盗人も出没したそうです。まだ走れる乗用車のタイヤを外して持ち去り、自分の車のタイヤに使っている心ない人も幾人か出没したそうです。人の居なくなったお店から品物をゴソット持ち去っていった人もいたそうです。
 その人達の数は、一つの物を三つにも四つにも分け合い助け合って生きていこうとする被災者の人達と比較すると、ほんの僅かな人達のようですが、被災地でこうした出来事を聞くと、心が痛みす。
 「百害を除くには一善を興すに如かず」と昔から言われていますが、マスコミは、先のような悪しきことを抑制するかのように、東日本大震災の大惨事の中で見せた日本人の秩序を重んじる礼節の心、他を先とする思い遣りと分かち合いの心を、大きく報道しました。
  世界各国も、日本人の極限状況下で見せた自他共生の国民性に驚嘆し、尊厳の眼差しを以て日本人の美談を報道してくれました。また、アメリカをはじめとする各国からの救援隊も多数日本に送り込まれ、それが支援国の善意の鎖の輪となり、世界が一つに結ばれていったのも東日本大震災でした。
 こうした報道に、誰もが、世界が自然災害の救援を巡って協力し合っていけるのに、どうして世界は未だに局地紛争が繰り返えしているのだろうと訝しく思わされました。
 この度の震災で見られた日本人の美徳と世界各国から援助で日本に来てくださった救助隊の方々の真心を伝えていくことにより、日本人の良心が呼び覚まされ、精神復興に繋げていくことができれば、戦後日本の課題とされてきた心の荒廃を建て直していくきっかけとなれると、強く感じました。そうなれば、亡くなった方々の供養にもなると心に期すものがありました。
 前記のように、「被災地応援マンドリンコンサート」に同行させていただき、3.11東日本大震災の惨事の一端を垣間見ることができました。それだけに、大和山本部で行っている被災地復興応援活動の意義を体感できましたし、生徒達もその活動の支援・協力活動の大事を身を以て体験できたと思います。何よりも、コンサートを聴いてくださった方々が、大変喜んでくれ、「これから生活していく力をいただいた」と感想を述べてくれたことが、何よりもの喜びでした。
 最後に、「被災地応援マンドリンコンサート」で演奏した生徒の感想文を下記に付しておきます。感動した玉稿でした。             (2013.10.9)
           ○      ○
      ー被災地応援演奏会を終えてー
 私は、今回の被災地での演奏に行くことができて本当に良かったなぁと思います。
 二年半前の三月十一日、テレビで流れた映像は創造を絶するものでした。私自身も震度六弱という比較的揺れが大きい場所にいて、「これはただごとじゃない。」と思っていましたが、ここまでとは思っていませんでした。そんな中、特に大きい活動やボランティアもできず、時が過ぎてしまいました。ですから、今回被災地に行くと決まったときは「自分にも何かできるんだ。」と嬉しかったです。それと同時に「どうにか元気になってもらえる演奏をしたい。」と思いました
 そして九月七日、本部を出発し六時間くらいで被災地に到着しました。周りの様子は瓦礫が大分片付けられていましたが、まだほとんどが空き地のような状態でした。何もなくて逆に実感がわきませんでした。しかし、七万本あったうち一本残ったという奇跡の一本松を見て、後ろにある水門の所に引き潮で流されたご遺体が二、三百もあったと聞いて本当にここまで津波が来て全部持っていってしまったんだなと思いました。もし自分の故郷がこんな状況になったら…と考えると、言葉では言い表わせない辛さや苦しみがあるだろうと思います。
  しかし、今回被災地に行ってお世話になった釜石支部の方や演奏を聴きに来て下さった方、復興商店街の方など、会う人みんなが笑っていて、私たちが来たことを
「遠い所からありがとうねえ。」と言って下さいました。
    「この人たちは前向きに頑張ろうとしているんだ。人ってすごいなあ。」と思いました。私たちが元気を与えるはずが、元気や勇気をたくさんいただいてしまいりました。
  そして、中妻仮説集会所での演奏会では心があったかくなりました。技術的にはまだ拙い演奏だったと思いますが、どの回も心を込めて弾くことができ、聴いて下さった方々が私たちをじっと見つめていたり、涙を流されている姿を見て「来て良かった。」と心から思いました。全ての演奏が終わった後に「皆さんからパワーをもらったよ。」「また来てね。」「本当にありがとう。」と言って下さり、バスが見えなくなるまでずっと手を振って見送って下さいました。 今までこんなに多くの方が見送ったことはないと聞き、私たちの想いが少しでも届いたのかなと思いました。
   私たちにできることは少ないかもしれませんが、まずはまだ大変な思いをしている人がたくさんいることを忘れず、少しでも早く復興が進むよう祈ろうと思います。
   そして、できることならまた被災地に行って何かお手伝いができたらいいです。(2年 D.M)