謹んで震災のお見舞いを申し上げます。
 
 平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震及び長野県北部 を震源とする地震で被害を受けられ た皆様に心より お見舞い申し上げます。
   私達学校関係者も、千年に一度という大惨事に対して心を一つにして、被災者の方々の今後の救援に取り組
んでいきたいと思っております。
  
              ○                                                             神を動かす我が心の誠こそ
      己を救うものなるべし      

             
                     理事長 田澤昭吾

   
 悪人正機説では、自らを善人と許し、阿陀の慈悲を頼む心が欠けている傲慢無知な自力作善の人でさえ救うのに、自らを罪深いものと自覚し、ひたすら阿陀の慈悲に救いを求める謙虚な悪人をどうして救いとらないわけがあろうかと教える。
 悪人正機説は、これまで親鸞の説いた教えだとされてきたが、今では法然の説いた教えであったと仏教学者の間で論証されてから久しい。
 親鸞が悪人正機説を説いた頃には、悪事を働いて念仏を唱え、救われようとした念仏行者も出現したようだ。悪人正機を履き違えた不逞の輩(やから)である。
 この事については、弘法大師空海の「教法は本(もと)より差(たが)うことなし。牛と蛇との飲水(おんすい)の如(ごと)し。牛は飲めば蘇乳(そぎゅう)となり、蛇は飲めば毒刺(どくし)となる」と説いた言葉が深い。意味は、同じ水でも牛が飲めば栄養のある乳にするし、蛇が飲めばそれを毒としてしまうということだ。それは、尊い教えも聞く人によっては全く違ったものになる、ということだ。 
 悪人正機説を聞いて、悪事を働いては念仏を唱え救われようとした輩(やから)は、まさに水を飲んで毒と化す蛇の例えの如くの人だ。
 例えば、人類を明るい未来に導く科学の知識も、それを使う人によっては人類を滅亡に導く悪魔の知識に変えてしまう危険性がある。このことを、次の歴史的事例から証左してみよう。
 広島・長崎は、昭和20年8月6日、9日に、アメリカが開発した原爆が投下され、一瞬のうちに10万余の命が奪われ、その後も犠牲者は相次いだ。後遺症で苦しむ人達は、今なお病床に伏している。この事実は、決して忘れてはなるまい。
 日本に原爆が投下される一年前の昭和19年7月半ばに東条首相、杉山元帥は、原爆完成が近いことを昭和天皇に報告し、それをハワイに投下する計画の承認を求めた。しかし、昭和天皇は、原爆を日本が使用したならば、やがて各国が競って原爆製造に走り、人類滅亡への道を歩むことになからと言って賛成されなかった。そうなれば、日本が人類の歴史に汚点を残すことになるからだという。ハワイには、日本の同胞が多数移住しているし、現地の人達と共に今日を築き上げた地でもあると言って賛意を示されなかった。その結果、原爆製造は中止された。
 しかし、アメリカのアインシュタイン、オッペンハイマー、グローブス将軍、トルーマン大統領を始め米欧科学者、政治家、軍人は、とにかく「日本を倒せばいい」という事のみを考え、原爆を広島、長崎に投下した。
 そして、戦後世界は東西・冷戦状態を招き、「核の冬」時代を迎えた。その延長線上にある現代の世界は、昭和天皇が危惧されたように、一歩判断を間違えば、いつ人類滅亡への道を歩むことになるかという危機的状況に立たされている。アメリカ指導者が原爆に対する判断を誤った結果招いた人類の危機だ。
 アメリカは、広島・長崎に原爆投下したことが人類の歴史に汚点を残さなかったかを真摯に省みることが必要であろう。戦後世界をリードしていくために日本に原爆を落とし、「俺たちに刃向かえば、日本と同じようになるぞ」と世界を恫喝したアメリカの思惑は、見事に覆され、「核競争時代」を招き築いた罪は、万死に値するものだ。それを省みることしなければ、いずれ歴史において天が審判をくだすであろう。
 先に記した弘法大師空海の「牛は飲めば蘇乳となり、蛇は飲めば毒刺となる」の教えに習って、昭和天皇とアメリカ大統領の原爆に対する対処の違いを記してみた。
 閑話休題。悪人正機の悪人とは、煩悩具足の人で、その罪深さを自覚した絶望の境地から、ひたすら阿陀の慈悲にすがり、救いを求める人のことである。この謙虚な境地で阿陀の前に立ち、自分の力ではどうすることも出来ない自己を自覚し、ひたすら阿陀の慈悲にすがってすべてをゆだね、阿陀の心のままに生きようとしたのが親鸞の絶対他力の信仰である。そこに悪人正機の真骨頂がある。
 大和山では、「神を動かす我が心の誠こそ己れを救うものなるべし」
( 『大和山神諭抄第一集』五つの精進道[道に尽くして天より受け]より)とみ神は教えているが、親鸞の絶対他力の信仰も、み神へ通じる誠なる信仰も、み神に救われる信仰も、同じ信仰の深さを説いている事は同じである。
  「祈れ。誠をこめて祈れ。祈りこそ救いの道ぞ。低迷する暗雲も、混沌たる夜のとばりも、雲は流れ、闇は明るみて、喜びの曙、輝きの太陽出でん。豊かに、さはやかに、朝の日は、神に祝福されし祈りの家にこそ訪(おとな)ふ」。
(『教のしづく』4番)
 み神の呼びかけが、心に染みてくる。
                                              (2012.2.14)