心の陶冶のために (4)

                                          理事長 田澤昭吾

    苦難に克つ信念と信仰とを持たざれば、
      神此れを教信徒と称さず。
  
                            (『救いを求むる者は必ず救われん』二二一番)

   人生は、決して順風満帆といくものでない。生きていく中で、楽しい時と苦しい時のいずれが多いかといえば、苦しい時のが多いものだ。しかし、それだけに、束の間の楽しさが、幸せが、過去の辛かったこと苦しかったことすべてを忘れさせてくれるのだ。
 神は言う、苦難の時こそ、その苦難を克服する信念と信仰を持たざれば、教信徒と言わずと。なんという厳しさであろうか。
  正しさを守ることは、必ずしも楽でない。ましてや、み教えに忠実に生きることは、困難なことだ。人の世の常として、正しさを守り、み教えに忠実に生きることが、逆に苦難や不利な立場を招くことが間々起こる。その苦難に屈することなく、み神と共にその苦難を受けとめ、み神の指し示すままに進めとも教える。これもまた、なんと厳しいことであろうか。
  「汝一人善きものとなるべく精進せよ。人の世は、その一人のために浄められん」と、み神は呼びかけ、悪魔はその空しさを人にささやくとも教える。
  神の側に立って生きるか、悪魔のささやきに屈するか。まさに生活は精進・闘いの場だ。苦難は敢えて覚悟し、み神と同行二人で信仰の山坂を歩もうとする気概に燃える信念の人でありたいものだ。
  教祖さまは、大和山の道を「自他力本願を宗(むね)となす」と宣言され、開教なされた。自力の「さとりの宗教」も、他力の「救いの宗教」も、同じ道に通じる道程だと教示されたみ神の経綸を確信し、正法の器として、み教えに照鑑し、正しい心と行いの人となる信仰の道こそ「自他力本願」の主旨に添うことになろう。それには、精進が伴わなければならぬとも教える。その苦難に克つ人として生きたいものだ。
                                                    (2011.3.14)