松風塾高校HPのINDEX

     松風塾小史

 目 次
1  松風塾開塾・開校の素志(理事長・田澤昭吾記)
2  二つの贐(創立者・田澤康三郎記)
3  新生活を始める(創立者・田澤康三郎記)
4  高校の実現(創立者・田澤康三郎記)




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1 松風塾開塾・開校の素志


 創立者田澤先生は、昭和三十年春に、生活学苑大和山松風塾を開塾しました。その時は、まだ学校法人ではなく、寺子屋同然の修学二年間の私塾でした。昼は汗して働き、夜は「読み・書き・そろばん」という昔ながらの教育を中心に教育活動を行っていました。
 創立者田澤先生は、三十三歳まで東京帝国大学(現在の東京大学)の研究室で学究生活をなさった宗教学者です。当時の恩師に東京帝国大学で宗教の教鞭をとっていた岸本英夫先生がいらっしゃいました。岸本英夫先生は、当時の連合国軍総司令部=GHQ(General Headquarters)から、占領軍と日本政府の連絡官という仕事を仰せつかっていました。当時は現在と違い、岸本先生のように英語が堪能な人は稀でした。岸本先生は、毎週一回の講義のために東京帝国大学の研究室へ顔を出し、その度にGHQの日本占領政策の片鱗を創立者田澤先生に話しました。岸本先生が予測した日本の将来を、創立者田澤先生は次の四点にまとめています。

一.占領軍はわが国の国土を奪い取って、国を潰そうとは思っていない。アメリカにとって日本はなくすることのできない国だから、復興再建のために必要な物資も資金も食糧も援助するだろう。

二.ただし、占領軍の中心勢力であるアメリカは、三年や五年で占領政策を解除しようとは思っていない。少なくとも三十年は占領しているつもりのようである。

三.この三十年間に日本人はアメリカの物量に圧倒され、アメリカかぶれしてしまうだろう。その反対に、何でも世界の第一番でないと気の済まないアメリカはきっと行き詰まる。アメリカの目は東洋、とくに日本に向くに違いない。今はアメリカが援助するので何とかなるが、その三十年先が日本の独立の危機だ。その日を予測してわれわれ宗教を勉強した者は三十年先の日本のために準備をしよう。そのためには、英語を勉強し直し、同時に日本の宗教と文化を勉強して、日本の文化を英語で語る能力を備えよう。  

四.敗戦の混乱で今は宗教学者の出番はないが、三十年先には必ずその時機が来るから、その時には、学問の立場で宗教を守るか、宗教者はこのように生きるという実践の立場で立証するかのいずれかを取ろう。

これを端的に要約すると、「終戦後の日本の真の危機は、三十年先にやってくる」ということです。そのために、岸本先生は、宗教学者はその時に備えて、日本の宗教文化を英語で伝える力を身につけなければいけないし、日本の宗教者は生活の具体的な場において民衆と共に生きて、その生きざまをもってその危機に対応することが必要である、と話されたのです。創立者田澤先生は、昭和二十一年五月に、後者の立場を選んで教祖大和松風先生のもとにお帰りになり、時の来るのを待って、「三十年後の日本の危機」を打開するための青年教育を始められたのです。こうした願いのもとで開塾されたのが生活学苑大和山松風塾でした。そして、この願いをそのまま継承し、開校したのが松風塾高等学校なのです。この建学の素志は、松風塾高等学校の支柱でもあります。今の日本は、その予想通りの危機をむかえ、本校卒業生の使命は、ますます重大なものとなっています。
ここに、創立者田澤先生が第十八期生のために書かれた入学訓示の中から、本校小史の要約を抜粋して記しておきます。
               
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2  二つの贐

 わたくしは昭和二十年八月十五日の敗戦による降伏宣言を、当時東京帝国大学と称しておった大学(現在の東京大学)の宗教学研究室の戦時特別研究生という身分で聞きました。戦時特別研究生とは、大学で勉強しておれば国民の義務だった兵役の義務が免除され、同年十月末までに研究の成果を報告すると、その後は国が指定するどこかの研究機関に配置されると規定され、月給も破格に高かったのです。わたくしは不十分でありましたが一応の報告をまとめ、その後の指示を待ちましたが、何もかもご破算になり、十月以後は自由に決めてよいということになりました。
 その頃の東京は、度重なる大空襲で、一面の焼野原で、どこにも復興の曙光がみえませんでした。占領軍が駐留してどんな仕返しや占領政策を打ち出してくるのか誰にも見当がつかず、流言蜚語が乱れ飛びました。たまたまそこへ、わたくしの恩師であった岸本英夫先生が占領軍司令部(GHQ)から、占領軍と日本政府の連絡官という仕事を仰せつかりました。当時は、現在と違い、英語の堪能な人が至って少なくこの方面が手薄だったのと、GHQにはアメリカのハーヴァード大学出身者が多かった事情とが重なり、岸本先生が探し出されたのだそうです。
 岸本先生は東京帝国大学の講師と連絡官を兼ねることになり、毎週一回の講義で研究室に顔を出し、GHQの日本占領政策の片鱗をわたくしたちに聞かせてくれました。わたくしはわが国の宗教事情を調べて毎週一回先生に提出し、先生はこれをGHQの宗教担当者バンス大尉に講義する資料としてくれたので、世間では聞けない裏話を早耳で聞いて一喜一憂しました。
 わたくしは、昭和二十一年五月に研究室を退職することに腹を決めましたが、それまでに知り得た当時の情報で今も忘れないのは、占領政策に対する見識と見解でした。(占領政策の危機は、三十年後に来るということ)
 わたくしは、学者になるために、これ以上両親に援助してもらうこともできない事情も分かっておりました。そこで、わたくしは後者の途、即ち宗教学者は斯くの如くに生きると、実践の立場で答えを出すことにし、三十年先に日本が独立するために必要な道を選ぼうと考えました。そして昭和二十一年(一九四六年)五月中旬に教祖さま北玉さまの元へ帰ることにしました。
 昭和十年四月に入学してから十年余り毎日通い慣れた研究室に訣別するのには、一抹の感傷がありました。今でこそ各大学は豪華な近代設備となりましたが、当時は東大に及ぶ大学はほかに見当たらなかったし、読みたい図書は揃っておりましたし、勤務といっても普通の職場ほど厳しくはなかったし、じつに勿体ない、願ってもない場所でありました。未練のない方がどうかしております。 
 何もかも無い無いづくめの当時でしたから、送別会といっても小さなケーキ一つと一杯の紅茶だけでしたが、研究室でお別れ茶話会を催してくれました。わたくしは、わが国宗教学界に何一つの研究業績も残さず、戦争で勉強も中途半端でしたから、何かしら後ろめたい思いで送別会を終え、赤門をくぐって通りに出ました。二〇〇メートルも歩くと両側は焼け落ちた瓦礫の原でした。肩を並べて同行したのが岸本英夫先生でした。
 GHQの連絡官を兼務しておるとはいってもまだ大学の講師では薄給で、弟子の就職を配慮できるほどの余裕はなかったと思います。これらのことは新入生の諸君には何の関係もないし、興味もないに違いありませんが、他日東都に遊学するようになったらこの件を思い起こしてほしいと思い、なるべく詳しく記述しておくのでありますが、本郷三丁目を過ぎ、お茶の水駅に近くなったところが順天堂病院でした。そこの横断歩道を渡った石垣沿いの角を曲がったところで、岸本先生は、
 「ナァ田澤君、君と別れるに当たって、二つのことを贐として言ってやりた  いのだ」
 「一つは、人生は目覚し時計の哲学だよ」  
 「もう一つは、人生は世話ばちだよ」
 「人生は目覚時計の哲学である」とは、時計の針を目を覚ましたい時刻に合わせ、ネジを十分に巻いておけば時計は鳴ります。ネジを十分捲いておくとは、実力を十分蓄えておく意味であり、針を必要な時刻に合わせておくとは、理想をもつことの意とわたくしは直感したのであります。
 なかなか理解できないのが何かのはずみに理解できるようになることを、昔から会通(一見矛盾する説を通じさせ、融和させる)とか、頓悟(突然悟りを得る。それに対して「漸悟」、「徐々に悟りを得る」という禅語がある)というのですが、わたくしにはそう直感できました。
 わたくしの学生時代とちがい、各方面の知識は日進月歩ですから、人生の修練期間はそれだけ長くなりました。諸君の修学期間も長くなりました。お前は勉強して何をやりたいのか、何のために勉強するのか、と自分が自分に問いかけてみる。その理想をただ漠然と掲げ追求するだけでなく、それを実現する準備をする。それが勉学であり修練であります。だから諸君の学習も根気強く、倦まず弛まず、マラソンのつもりでつづけなくてはなりません。「人生は目覚時計の哲学」とは、小成に安んじてはいけないという意味であります。そして針を合わせネジを捲いておけば必ず鳴る時節がくるという意味であります。
「人生は世話ばちだよ」とは、信徒方をお世話しても、感謝されると思うな。感謝されないどころか、手を咬まれ損をするのはまだよい方で、時には逆恨みされる場合だってあるからな。岸本先生にこの二つの贐の詳しい解説を求めないままに二人は電車に乗り、わたくしは中央線吉祥寺駅で降り、岸本先生は、次の三鷹の駅まで行かれました。岸本先生はその後東京大学の教授となり、図書館長を勤められ、アメリカとの文化交流に大活躍なされましたが、癌をわずらい、一九六四年一月に逝去されました。岸本先生は、わが国の前途に大きい期待を寄せられてその対策を考え、人材の育成に努められ、亡くなりました。先生が生前中、たいへんご多忙な毎日を過ごされた頃、よく「こんな時に田澤がそばにおってくれれば助かるのに」とか、「青森へ帰したのが惜しかった」と側近の方に漏らされたそうで、そのことを風の便りで伝え聞いたときは、恐縮したものです。また、どこかの大学の講壇に戻って来ないかと、一、二の大学教授の口をご紹介くださったこともありました。わたくしは今でもその知遇を感謝して思い起こすのであります。
           
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3 新生活を始める

 昭和二十一年五月十五日にわたくしは今の大和山へ戻って来ました。恰度その前日の夕方に、松邦先生が南方セレベスでの軍務から復員しましたので、二人で連れ立って参山しました。当時はまだ電話が架設されておりませんでしたから、教祖さまはじめ皆がびっくり仰天し歓迎してくれたのをはっきり想い起こします。小湊駅から徒歩十三キロ。外童子から本部までは荷馬車が辛うじて通れる程度の杣道で、建物も現在のようでなく、教祖天小屋の南隣に第二天小屋、その向かいに中庭を挟んで第三天小屋があり、それらよりも少しくましなのが現在の五光館のところの一段高い丘に第五天小屋があっただけで、電話はむろんのこと、電灯もなく、夜はランプかローソクで読書する状況でした。周囲のほんの一部が畑地でほとんど全部がジャングル状の雑草地でした。
 ここに荷をおろし、新しい生活をどうしようかと思案し、お前は何をやりたいのか、何をしたくてここへ帰って来たのかと、もう一人のわたくしがわたくしに問いかけました。敗戦直後でしたから五里霧中でした。その深い霧のような状況の中で何も見通せませんでしたが、それでも朧気ながらわたくしの脳裏に浮かんだのは、
 「生活力のある宗教者でありたい」
 「思想の自由を得るために生活の独立安定を確保したい」
という、如何にも食糧難の当時らしい構想でありました。教祖さま北玉さまをはじめとするお山の住民たちを安心して暮らさせたい、お参りにみえる信徒方に不自由をかけたくないと思いました。それがためには山主から開墾用の土地を借用しなくてはならないので、幾度も幾度も山主の門を叩き、時には山主の前で卑屈な思いもしました。
 しかしわたくしは前に述べたように、「わが国のほんとうの独立と危機は今にではなく、三十年先にやって来る」という岸本先生のお言葉を信じておりましたので、その日に備えて青年育成塾を開設したい、そのためには生活の安定を得なくてはならないし、実習圃場を設けなくてはならない、指導員も用意しなくてはならないとその心仕度を始めました。
 幾多の紆余曲折を経てわたくしの開拓事業に一応の目途がついた昭和三十年、教祖さま北玉さまの金婚式祝賀の宴を挙げたのを記念してわたくしの夢を実現したのが、「生活学苑大和山松風塾」でありました。
 わたくしの開拓事業がようやく明るい見通しを得たとはいえ、まだまだ未完成でした。やっと造成した水田は作土より石礫が多く、苗を挿し植えるにも指をいためる苦労の毎日でした。しかも、僅か六名の塾生から始めた塾教育では、昼は作業、夜は勉学の寺子屋でした。教科は、古典講読、簡単な数学、それに書道と、一年後にはマンドリンとギターの練習で、土曜も日曜も、夏休みもない勤労教育の毎日でありました。それでもそこには夢と願いがありました。その夢と願いは、将来この地に青年教育の普通高校を建てたいとの共通の願いと夢でありました。田圃に苗を植えては誰のためにでもなく、後につづくもののために、山に苗木を挿し植えても、この苗木が大木となって校舎の建築材になってほしいとの願いが脈々とたぎり流れておりました。一同は声をかけあって、田圃を「学田」と呼び、山林を「学林」と名づけました。
 この寺子屋を開設した昭和三十年頃には、わたくしも元気一ぱいでしたし、教団の用務もさほど忙しくありませんでしたから、何もかも陣頭指揮で張り切っておりました。昼は作業、夜は勉学で、疲れを知りませんでした。その当時は、まだ敗戦の虚脱状態から抜け出ておらなかったので、強健な身体、豊かな教養、高尚な趣味をスローガンとして教育すれば、信徒方の理解のもとに就職口も見つかりました。今では卒業生たちは、各方面で自営自立しており、その子弟方が本校に入学してくるようになりました。
 ところが、わが国が徐々に復興し経済が上向くにつれ、高等学校進学熱が高まり、ついに高校全入論までおこってきました。そうなると、中学校卒業程度の学歴しかない卒業生の進路が閉鎖されてしまいます。わたくしはここで、青年を袋小路に追い込んではいけないと苦悶しましたが、窮余の策として、県立野辺地高校の通信課程を受講させ高校卒業の資格を取得してもらいました。
         
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4 高校の実現

 そうこうしているところへ、たまたま県立木造高校が改築するので旧校舎を処分するとの情報を得ました。せめて体育館だけでも手に入れたいと交渉しましたところ、校舎も一括でないと譲渡しないとのことで、急に校舎も体育館も一括して払い下げられることになりました。わたくしは、校舎敷地を現在地に決め、整地し、グラウンドを造成し、一方では普通高校開設の許可を県教育委員会に申請し、旧校舎を一部補強して復元することにしました。これだけ大きい校舎なので、解体するだけで二カ月はかかると思われたのに、多くの信徒方が連日奉仕してくれたお陰で、二十日足らずの短い日数で完全に解体し運搬してしまい、一方では校舎の再建築工事が始まりました。古校舎とはいいながら、昭和二、三年頃にヒバの良材を厳重に検査して建てたとあって、五十年たっても全然腐蝕も損傷もなく、再建のために更にそれを補強したので、火事さえ出さなければ今後百年は使用できると思います。
 しかも旧制木造中学校として建設された当時からの伝統で、落書きが唯の一つもないことを誇りとしてきただけあって、解体してみても素晴らしい校舎でありました。本校の校舎となってもこの良風は守りつづけられています。
 わたくしは、見えざるみ神の配剤によって、念願の学び舎を手にすることができ、衷心より感謝いたしました。口では学校を開校すると言っても易々となし得る業ではありません。学校設置のいろいろの基準からいえば、校庭の広さ、校舎の構造、教材用具、教師の充足、どれ一つをとっても右から左へ買い物をするようにはいきません。幸いにもこの学校を開設するのに必要な敷地は既に用意されてありましたし、古校舎ではあっても今でも手に入りにくい堅牢な良材でありました。信徒方が馴れない解体作業に奉仕してくれました。そして信徒方は、青年修行塾を開設したいというわたくしの呼びかけに応じてくれたお陰で、一銭の借金も残さないで校舎が建ちました。自然の環境に恵まれ、わたくしの夢が実現して開校に漕ぎつけたのは、わたくしが還暦(六十歳)を迎えた昭和四十九年でありました。生徒が集まってくれるかと不安がありましたが、第一期生五十三名が入校することになったので、わたくしの誕生日に当たる四月九日に開校式を挙げました。
 生活学苑大和山松風塾は第十九期修業生まで続き、ここで普通高校に発展的に解消しました。わたくしの長い夢がようやく具現しました。わたくしは、何が何でもこの小規模校を立派に運営しなければならないと決意しました。そして、そこでわが胸中に去来したのは、昭和三十二年の三月、第一期修業生の卒業式にご臨席なされた教祖さまが、今でこそ僅か六名の卒業生だが、今に時節が来ると、この学校を卒業したことが大きな誇りと思われる日が来ると激励してくだされたことです。その時節の到来を安閑と待つだけでなく、石に齧りついても立派な学校にせねばと思いました。
 そしてこの寺子屋のよき塾風を普通高校に受け継いでもらいたいし、誇り高い寺子屋の名誉を残したいので、敢えて「松風塾高等学校」と校名を定めることにしました。
 この学校はわが国の普通高校の中でもミニのまたミニ高校で、世間の目からはものの数ではありません。わたくしの年来の主張で宗教教育を核にして生活指導をすると宣言しましたところ、坊主の学校か神官を養成する学校だと軽蔑されました。教師は欲得を捨ててかかる気概を持ち合わせましたし、生徒は刻苦精励した甲斐があって、平成十三年三月卒業の第二十五期生までは千二百四十五名(生活学苑大和山松風塾を開いた昭和三十年からだと千四百七十一名)の卒業生を送り出すまでになりました。
 大規模校に比べると、その数は決して自慢するほどの人数ではありませんが、それでも「国の柱・地の塩」「世の光」としてそれぞれ誠実に人生を歩んでくれるに至りました。一流の名門大学にはまだ進学してはおりませんが、めいめいの頭のサイズにあった帽子をかぶって進学し、進学率は年を逐って高くなっております。世人には、この学校で誠実に学習し、教師の指導を受けると、ゆくゆくは大学に進学するのが当たり前と思われるようになり、ようやくこの学校の真価が認識されるようになりました。
 学歴社会の利害が議論されておりますし、高等学校は、大学進学の中間駅ではなく、それ自身としての存在理由がありますが、それでも日進月歩の学問におくれをとらず、適者生存の生存競争に堪えるためには、この学校を卒業すればそれでよいとする小成に甘んぜず、更に修学してくれるようにと、わたくしをはじめとする教師一同がそれを願って指導しております。

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