学ぶ者の心得(2) 副校長 石 井 徹 3,よく聞いてしっかり理解する 「示して言われた、学道の人は師に参じて法を聞くとき、よくよく徹底して聞き、繰り返し聞いて、しっかりと理解すべきである。問わなければいけないことを問わず、言わなければいけないことを言わないで過ごしてしまったならば、自分の損になるに違いない。 師は必ず弟子の質問を待って発言するのである。[弟子は]わかっていることでも、何度も質問して、しっかりと理解すべきである。師も弟子に[しっかりとわかっているか]と質問して、言い聞かせなければならない。」(『正法眼蔵随聞記』1の13) 指導者について何かを習うとき、よく聞き、よく学び、納得がいくまで教わることが大切である。鈍いと言われることを恐れず、納得がいかないことは、繰り返し聞くことである。質問に対して親切に応じない指導者であれば、それは真の指導者とは言えないし、その指導者自身がよく分かっていないから、分かるように教えられないということになる。とにかく、師の教えに随って、学び、実践することである。教える側も、何度聞かれても親切に教え、あるいは、本当に分かっているかどうか確認することが大切である。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生(末代)の恥」という諺もあるように、聞く時には聞いておかないと、聞く機会を失い、後に大きな恥をかいてしまうのである。 4,百不当の一老 「仏道の道を歩もうとする心を発(おこ)して、仏の道の修行を始めてのちは、難行を懸命に行うとき、行っても行っても、百も行っても一つも当たらない(悟ることができない)。しかしながら、指導者に従い、教えに従って修行して、ようやく当たることができるのである。今のこの一当は、これまで百回行って当たらなかったその力によるのである。百回当たらなかったその力が、ここに老熟したのである。教えを聞くことも、行うことも、悟ることも、みな同様である。昨日までの百の努力が報われなかったとしても、、その努力の力によって、突然今日の一当が訪れるのである。仏道修行を始めた初心のとき、未熟であってなかなか得られるものがなくても、仏の道を捨てて、違った道を経験して、それによって仏の道を得ることはできない。仏の道に初めから終わりまで徹底できない者は、それが仏の道につながっているか、ふさがっているか、明らかにすることが難しいのである。 仏の道は、最初に菩提心を発したときも仏の道にいるのである。正しい悟りを成就したとき仏の道にいるのである。初めも途中も終わりも、みな仏の道にいるのである。例えば、千里の道を行く者にとって、最初も一歩も千里の道である。千歩も千里の道のうちである。初めの一歩と、千歩とは違うけれども、同じ千里の道の中の同じ歩みなのである。」 (『正法眼蔵』「説心説性」) 「失敗は成功のもと」という。成功という一当は、失敗という百不当の一老―百回の努力が目に見えないところで老熟して、成し遂げられたもの―であるとも言える。失敗というよりも、むしろ、継続と言った方がよいかもしれない。努力は必ず報われる、とは言えないが、努力がなければ成功もないはずである。したがって、地道な努力が必要である。小さな努力でも、それを継続すれば、人は変わるのである。そして、その努力の中に、すばらしい意義があるのである。修行の中に証りが現れているのである。修行ということは、継続して行う、怠りなく続けるということである。その修行の連続こそが証りそのものなのである。即ち、過程、プロセスこそが重要なのである。
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