天皇誕生日奉祝式典にあたって日本を見直す            

 今日は、今上陛下八十一歳の誕生日です。松風塾高校では、開校以来、天皇誕生日奉祝式典を行い、全校生徒で今上陛下のお誕生日をお祝いしてまいりました。併せて、記念講話を開いて天皇誕生日奉祝の意義を再確認し、日本人としての自覚と使命を高めていくように努めて参りました。
  今朝のニュースでは、今上陛下が昨日、皇居・宮殿で宮内庁記者と会見し、来年が戦後七十年になるのを前に、「先の戦争では三〇〇万を超す多くの人が亡くなりました。その人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課せられた義務であり、後に来る時代への責任であると思います。そして、これからの日本のつつがない発展を求めていくときに、日本が世界の中で安定した平和で健全な国として、近隣諸国はもとより、できるだけ多くの国々と共に支え合って歩んでいけるよう、切に願っています」とのお考えを示されたことが報道されていました。
  陛下は、「常により良い日本をつくる努力を続けること」が、先の大戦で亡くなった方々への義務であり、併せて未来の日本に対する責任である、とのお考えを述べられたことをしっかりと受け止め、私達は今上陛下のこうしたお考えに沿えるような日本人になろうと、心に期して行きましょう。
  来年、皇紀二六七五年を迎える日本の中核に、天皇陛下を君主として仰ぐ皇室の伝統が連綿として息づき、今日の日本があります。それが日本の国柄であり、世界に類例のない万世一系の天皇を君主として仰いできた日本の国風であります。
 今日は、天皇誕生奉祝式典に当たって、最初に、今上陛下の生い立ちについて紹介したいと思います。
 今上陛下が誕生されたのは、昭和八年十二月二十三日午前六時三十九分です。上に内親王(女性)四人がいらっしゃいましたから、昭和天皇の五人目のお子様として男の子・親王が誕生されたことで、昭和天皇は殊の外お喜びになりました。そして、全国民が喜びに包まれました。都内十八ヵ所では親王誕生のサイレンが鳴り響き、家々には国旗が掲げられました。国旗は、全ての国民の家々に掲げられました。東京の街には、提灯行列が並び、デコレーションで飾られた花電車が現れるなど、祝福の喜びで街が一色になりました。今上陛下のお名前は「明仁」親王殿下と命名されました。
 今上陛下ご誕生の時代背景を整理しますと、昭和六年九月に満州事変、同八年に国際連盟脱退で世界から孤立化していくことになり、同十二年七月の支那事変、同十六年十二月八日の真珠湾攻撃で日米開戦となり、それが大東亜戦争へと展開し、同二十年八月十五日ポツダム宣言受諾を告げた玉音放送で日本軍の無条件降伏で終戦となり、同年九月二日に東京湾上に停留するアメリカ戦艦ミズーリー号の艦上で連合国軍との間に降伏文書調印式が執行され、日本軍の降伏・敗戦が決定されました。ここに、動乱の昭和史の幕が閉じられたのです。
  当時、今上陛下は十二歳で、学習院初等科六年生であられましたが、占領軍が皇太子殿下を人質として連れ去るかもしれないという風評から、側近の人達によって栃木県の山間、奥日光の南間ホテルの一室に隠れるようにして疎開なさいました。玉音放送は、そのホテルの一室で側近の方々とご一緒にお聴きになりました。その時、十二歳の陛下は涙を流され、その無念さを全身にお感じになり、この日、「新日本の建設」という作文をお書きになりました。読んでみます。
  今は日本のどん底です。それに敵がどんなことを行って来るかわかりません。これから苦しいこと、辛いことがどの位あるかわかりません。どんなに苦しくても、このどん底からはい上がらなければなりません。それに日本人が、国体護持の精神を堅く守って、一致して働かなければなりません。今までは、勝ち抜くための勉強、運動をしてきましたが、今度からは皇后陛下の御歌のように、次の世を背負って新日本建設に進まなければなりません。
  それも皆、私の双肩にかかっているのです。それには、先生方、傅育官のいうことをよく聞いて実行し、どんな苦しさにも耐えしのんで行けるだけのねばり強さを養い、もっともっとしっかりして明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならないと思います。
  陛下は十二歳で、ご自分の決意を述べられています。陛下の少年時代のお人柄を知る一端として下さい。二年生は、来年一月に皇居勤労奉仕に行くので、四日間の勤労奉仕の期間中に天皇陛下とのご会釈がございますから、こうした陛下の少年時代のお人柄も理解して臨んで下さい。
 幼少から少年時代にかけての陛下は、日本が世界を相手に戦争をしてきた最中に過ごされてきたのです。それだけに平和を希求する思いは強く心にお持ちであります。そのことを知る一端として、昭和五十七年八月七日に、宮内庁での記者会見で、「日本人の忘れてはならない四つの日」として、
   (一)昭和二十年八月十五日の終戦記念日
   (二)昭和二十年八月六日の広島の原爆投下の日
   (三)昭和二十年八月九日の長崎の原爆投下の日
   (四)昭和二十年六月二十三日の沖縄戦終結の日
の四つをあげていらっしゃいます。そして、
   「こういう戦争は二度とあってはいけないと強く感じます」。
とおっしゃりながら、先の大戦で亡くなった
   「多くの犠牲者とその遺族のことを考えずにはいられません」。
と述べていらっしゃいます。こうした戦争犠牲者と遺族に寄せる陛下の思いは、今もなお大御心に生き続けておられることを、冒頭に述べさせていただいた八十一歳のお誕生日を迎えられた陛下のご会見のお言葉からも拝察できると思います。私達は、こうした今上陛下の大御心を決して忘れてはいけないと思います。
 それだけに今上陛下は、平成五年に即位後初めて沖縄を行幸され、沖縄戦の遺族代表九名お一人お一人に声を掛けられ、これまでのご苦労を労われました。遺族の方々は、「長い間ご苦労というお言葉を貰ったので満足しています。お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。夫の霊前に報告したい。陛下のお言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました」と述べていました。
 平成六年には慰霊のために硫黄島をご訪問された陛下は、硫黄島を死守した守備隊陸軍の大将である栗林忠道中将が詠んだ辞世の歌「國のため 重きつとめを 果たし得て 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」に対し、「精魂を 込め戦ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき」と返歌をお詠みになり、硫黄島で亡くなられた数多の戦死者に対して慰霊の真心を捧げられました。そして、帰国の途に就かれ機上の人となったとき、陛下が慰霊の祈りを捧げられた所から、あたかも御霊が陛下に感謝を捧げるようにして、光が天上に昇って行ったというのです。
 私は、二度、この光が発せられた話を聞いたことがあります。一度は、本校の五期生で自衛隊員となっているN君からでした。当時、彼は硫黄島の駐屯地に勤務しており、その際に拝した体験でした。二度目は、その後、何年かして日本会議青森支部発会式の時に、東京の本部事務局から駆けつけた事務局の方の挨拶の中で聴きました。
 そして今、陛下が栗林中将の辞世の歌に返歌された御製を知る機会を得て、その時の光は、まさに栗林中将を始め、硫黄島で戦死した戦没者の御霊が、今まで地下に眠っていたのに、「精魂を 込め戦ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき」の御製に感謝し、歌音するかのようにして霊界へ凱旋していった姿・光であったのだと、全身わななく感動に包まれてくるような思いになりました。陛下の戦跡慰霊巡拝の行幸は、まさに現人神の行幸であられるということを実感させられる思いです。
 初代教主さまであられた創立者田澤康三郎先生は、校長先生として生徒達を皇居勤労奉仕で引率された時、宮中三殿を拝礼された後に説明して下さった中で「天皇は、ただ国民に君臨するものでなく、あくまでも神を祭る祭り主であるということを正しく理解しておかねばなりません」とご教示下さいました。まさに、このご教示の通り、陛下は「神を祭る祭り主である」ということを、私達はしっかりと認識していきましょう。
 左翼的な思想の人達は、天皇陛下を、特に昭和天皇の時代から軍国主義の代名詞の如くに批判しますが、昭和天皇にしろ、今上陛下にしろ、歴代天皇は、争うことに対しては非常に厳しく、平和を常に重んじられていらっしゃるのです。そのことは、御製を読むと一番良く理解出来ます。初代校長先生は、このことをよく私達にお話下さいました。国語科の澤田高久先生は、その教えを汲まれ、國學院大学の卒論のテーマに天皇陛下の御製を選び研究し、御製に流れている精神を論文にしたのですよ。生徒の皆さんで御製に関心ある人は、澤田先生から縷々お話を聴いて下さい。
 さて、ここで戦後の占領政策の意図が那辺にあったのかを、再度確認したいと思います。
 アメリカの戦後対日政策の基本目標は、一九四四年五月四日付けの文書「日本に関する合衆国の戦後目標」の中に明記されています。その第一は「日本がアメリカと他の太平洋諸国に対する脅威となることを防止する」、第二は「日本に他国の権利と国際義務を尊重する政府を確立すること」でした。この二つの基本目標を達成するために、日本占領直後の軍隊の武装解除、軍事施設の破壊等が実施されたし、日本人から愛国心を払拭するため、神道指令によって神道教育を禁じ、天皇陛下に対する忠誠心を無くさせる教育が敷かれていきました。そして、日本を世界の平和を脅かした犯罪国家とするために「東京裁判」を開廷し、日本をアジア及び世界の平和を脅かした侵略国家であると裁決し、そのための戦犯者を仕立て上げ国内外で千名余の軍人を処刑し、死に追いやりました。こうした経緯の中で、「マッカーサーノート」をもとに連合国軍総司令部民政局で草案した日本国憲法が押しつけられ、昭和二十二年五月三日に発布させられました。
 今上陛下は、こうした日本の戦中、戦後の動乱を若き日に過ごされ、今を迎えられていらっしゃるのです。
 さて、時あたかも、今年十二月十四日は、四百七十五議席を巡っての衆院選挙が行われ、安倍首相が率いる自由民主党が、四百七十五議席の中、二百九十一議席を獲得しました。連立を組んでいる公明党が獲得した三十五議席を含めると、与党の議席は三百二十六議席となり、参院で否決された法案を再可決できる三分の二(三百十七議席)を上回る議席を獲得しました。
  安倍首相は、平成二十四年十二月に「戦後レジームからの脱却」を訴え政権を奪還し、この時の所信表明では、なぜ首相になったかという決意を「国家国民のために、再び我が身を捧げんとする私の決意の源は、深き憂国の念にあります。危機的状況にあるわが国の現状を正していくためには為さねばならない使命があると信じるからである」と表明しました。そして。安全保障問題については「この内閣の下で、国民の生命・財産と領土・領海・領空を断乎として守り抜いていくことをここに宣言します。強い日本を造るのは他の誰でもありません。私達自身です」と、力強く表明しました。
  そして、平成二十六年十二月十四日の衆院議員選挙では、「アベノミクス」の信を国民に問う選挙だと謳いながらも、その主張の中に「戦後教育は自虐史観を蔓延させ、日本人から誇りと自信を奪った。南京大虐殺や(朝鮮人の)慰安婦強制連行を流布され、父祖の名誉が傷つけられて、それに迎合する人々もいる。中国は軍拡を進め、国際ルールを無視して海洋進出を図ろうとしている。そのためには、憲法九条を改正し、領海死守の備えが必要である」と訴え戦った選挙でもあったと思います。その戦挙に自由民主党は圧勝したので、憲法改正案は衆参両院で各々三分の二以上の議員の賛成多数で可決し、その改正の是非を国民投票で問い、過半数を獲得すれば、憲法は改正されることになります。
  自由民主党は、自主憲法制定を謳って立党した政党ですから、憲法改正は党是であります。これからの安倍政権は、アベノミクス(金融緩和政策、財政出動政策、民間の成長戦略)の達成に向かって経済政策を進めると同時に、憲法改正に向かっても具体的な活動を展開していくでしょうから、皆さんも今後の安倍政権の行方について関心を持って見て下さい。
 最後に、憲法について基本的な知識として知って欲しいことを述べ、記念講話の終わりとしたいと思います。
 日本が法治国家となったのは、明治時代です。徳川三百年の幕藩体制から、明治維新を経て、天皇中心の立憲君主国家として国家体制を整えたのは、明治二十二年十一月二十九日に発布された明治憲法施政下に入ってからです。憲法制定に当たっては、伊藤博文等が明治十五年に欧州各国を視察し、広く学んできたことを踏まえて草案が作成され、制定されました。
 その学びの中で、最も影響を受けたのはベルリン大学の歴史法学の大家グナイスト教授とウィーン大学のシュタイン教授でした。
 グナイスト教授は、憲法編纂に当たって「法は民族精神の発露である」という歴史法学の立場から、「憲法は法文でない。精神であり、国家の能力である」と講義し、日本が憲法を起草する適切なアドバイスをしてくれました。
 シュタイン教授も、「ヨーロッパの法制度をまねて日本の法を制定しても、それは単なる外国法の引き写しでしかない。大事なのは、古来の日本の歴史に徴し(問いただし)、これを今の日本の実状に照らし、かつ広くヨーロッパの学問を学んだことを接ぎ木していくことだ」と講義し、「日本の立法や憲法はなにより日本の歴史と文化に根ざしたものでなければならない。まず、日本の歴史を研究せよ」と教示したそうです。
 これを日本に当てはめて考えれば、日本という国柄を無視して憲法を議論することは無意味だということです。なぜなら「法(憲法)は民族精神の発露である」からです。
 伊藤博文は、グナイスト教授とシュタイン教授から、「法は民族の精神・国民精神の発露である」との指導を受け、併せて、憲法は、各々の民族性、歴史、文化的伝統等にマッチしなければならないということを学び、日本史の研究という課題も与えられ帰国しました。
 そして、帝国憲法起草者は、日本の国柄の上に憲法が成りたつべきだという考え方で草案し、近代憲法としての明治憲法が制定されていったのです。
 日本国憲法は、敗戦後に占領軍として乗り込んできた連合国軍総司令部(GHQ)民政局のニューデイラー達によって、西洋諸国の政治思想を入れることを重視し、日本的な要素をできるだけ排除する方針で寄せ集められ、作られた憲法でした。つまり、日本という視点が欠落した憲法として制定されました。勿論、占領政策の基本方針は、「日本がアメリカと他の太平洋諸国に対する脅威となることを防止する」、「日本に他国の権利と国際義務を尊重する政府を確立すること」でしたから、憲法の草案もこの二つの基本目標を達成するために制定されたということは推測を待ちません。しかも、日本は占領軍の支配下にありましたから主権がなく、最終的にはGHQの言われるがままに従うしか選択の方途がなかった、時代の産物としての日本国憲法として成立させられたのです。
 憲法の草案は「マッカーサーノート」を基本に民政局によって九日間で作成され、昭和二十二年五月三日に国会で成立するという手続きがとられました。こうして出来たのが戦後の日本国憲法なのです。(本誌「国際社会で生き抜く日本の道は何か」37頁を参照)
 そういう意味では、日本国憲法の成立の経緯と精神は、明治憲法成立の経緯と精神と全く真逆な形でGHQ民政局によって制定されたのです。このことを理解して欲しいと思います。
 ハーグ陸戦法規国際法には、「占領軍は占領地の現行法律を尊重しなければならない」と規定されています。この国際法によると、連合国軍総司令部の中心を占めていたアメリカが、日本の占領政策を進めていく中で明治憲法を廃止させ、「マッカーサーノート」の方針によって連合国軍総司令部民政局が作成した草案を、日本国憲法として国会で成立させたという事実は、ハーグ陸戦法規国際法に抵触しているとになります。この考えが正しければ、日本国憲法は無効だということになり、明治憲法を復活させなければならないとも考えられますが、この事についての判断・見解は専門家に委ねるしかありません。
 占領当初は、ハーグ陸戦法規国際法も、連合国軍総司令部の前には何ら効力を発揮することが出来なかったということでしょうか。強いて言えば、極東国際軍事裁判(「東京裁判」)で判事十一名の中の一人として名を連ねたインドのパール判事だけが、戦勝国が敗戦国を裁くという文明史にない東京裁判の不当性を、「(この裁判は)法律的外貌はまとっているが、実は、ある政治目的を達成するために設置された政治機関」であると批判してくれました。そして、A級戦犯被告者二十五名全員は無罪であるという判決文を提出しました。
 つまり、パール判事は、「この裁判はいかなる国際慣習及び条約によったものでもなく、裁判に値しないものである。従ってこの裁判は無効であり、被告全員は無罪である」という意見書を判決文として提出したのです。この時、裁判を仕組んだ連合国と進駐軍司令部の驚きと狼狽は、言語に絶したと言われています。
 しかし、ウェッブ裁判長は、裁判法規を無視して、パール判事の判決文を法廷で朗読することなく、「記録にとどめる」ということだけで終わらせてしまい、昭和二十三年十一月十二日、東京裁判の幕を閉じたのです。そして、昭和二十三年十二月二十三日未明、東條英機等七名が巣鴨拘置所内の刑場で絞首刑にされ、二名の被告は七年と二十年の禁固刑、他の十六名の被告は終身禁固刑に処せられました。
 GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策が敷かれた当初は、「日本を裁け」という狂気社会の真直中でしたから、その中でパール判事だけが東京裁判に臨むに当たって、この裁判が国際法に照らして真実の裁判であるかどうかをも含めて帝国ホテルの一室にこもり研究し、「日本の近世から現代にいたる歴史の研究」と「東京裁判に関連するありとあらゆる資料をあさり、調査に専念」し、英文にして千二百七十五頁、日本語にして百万語に及ぶ膨大な判決文をまとめたのです。そのために読破した資料は二年間で四万五千部に達し、参考書籍は三千冊に及んだと言われます。まさに超人的な努力で判決文を完成させ、ウェッブ裁判長に提出したのです。
  しかし、その判決文は公表されることなく四年間、書庫深くに埃をかぶったままにされ、世に出たのは昭和二十七年四月二十八日のサンフランシスコ講話条約の効力が発し、日本が晴れて独立した後のことでした。
  日本は、昭和二十七年四月二十八日のサンフランシスコ講和条約の施行で独立し、国際社会に復帰できた事を契機に、連合国軍総司令部によって制定させられた日本国憲法を見直すことに着手すべきだったのに、それを怠ってきた当時の吉田茂政権の責任は大きいと思います。経済優先を戦後日本の政策の中心に据え、歩んできたことは、確かに現在の経済発展を生みだす契機になったかも知れませんが、併せて、憲法改正の施策も並行して進めていくべきだったと思います。そこが悔やまれるところです。
  こうした経緯があったためか、自由民主党は昭和三十年十一月十五日に立党宣言をし、「党の使命」の一つとして「現行憲法の自主的改正を始めとする独立体制の整備を強力に実行し、もって、国民の負託に応えんとするものである」と掲げ、更に、「党の綱領」の一つに「独立体制の整備」として「現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う」と謳い、日本の保守政党として政治活動を展開してきました。そして、政権与党として盤石な体制を、紆余曲折しながらも、今日まで築いてきました。
  こうした状況下の中で、安倍政権は、この度の選挙で圧勝し、憲法改正についても着手していく政策を掲げ再スタートしたのです。
  今日の天皇陛下誕生記念式典に当たって、昭和の激動を歩まれてこられた今上陛下の足跡を辿りながら、日本国憲法の見直しが迫られている今、憲法とはどうあるべきかということを、明治憲法の成立と精神と比較しながら述べてみました。これからの世論は、憲法改正の問題が賑やかになっていくと思います。皆さんも、憲法改正の問題に関心を持ちながら、日本がどうあれば良いのか考え、高校生活での勉強に全力を尽くして下さい。以上をもって天皇誕生日奉祝式典の講話とさせていただきます。
                                      (2014.12.23)