「平和一食運動」四十周年の歩みと成果を辿る 

 六月十五日の日曜日に、大和山本部「神集閣大ホール」で開催された「世界平和活動四十周年記念式典」のプログラムの中に印刷されていた資料をコピーして皆さんに配付しました。「世界平和活動四十周年記念式典に寄せて」という一文です。
 「四十周年記念式典」に参加された教信徒は、「一食を捧げ 一欲を節する運動」(略称・「平和一食運動」)について再認識してお帰りになりました。皆さんは、丁度第一回定期考査のため、参列できませんでしたから、概要だけ説明します。
 前日には前夜祭があり、これには本校の応援団が三十分間演舞を披露させて貰いました。その後、信者さんが私の所に寄ってきて、応援団の演舞に感動したと褒めてくれました。大好評でした。ある信者さんは、「松風塾の応援団が、希望があれば各地へ出張して演舞を披露すれば、松風塾はもっと広がっていくよ」と、わざわざ言いに来てくれた方もいらっしゃいました。その方には、「松風塾高等学校の応援団は青森県一なんですよ」と、答えさせて貰いました。
 なんでも心を込めて一生懸命やっていることは、高く評価されるんですね。応援団に限らず全てがそうです。精一杯本気になって、やるべきことに取り組んで行きましょう。それが、見ている人の心に伝わって行くのですから。
 さて、当日配付されたプログラムに世界平和活動四十年間の平和活動の概略と、「平和一食運動」の浄財がどこに寄付されているかについても印刷されていますから、参考にして下さい。
 「平和一食運動」は、昭和四十九年十一月に本部で「越年感謝祭」が行われた際、初代教主さまが提唱され実施するようになった世界平和運動です。
 この年は、八月下旬から第二回世界宗教者平和会議がルーベンで開催された年です。
 第一回世界宗教者平和会議は、その四年前の一九七〇年十月に、京都で開催されました。
 京都へ世界の諸宗教の代表者約三百名が一堂に会し、世界の平和について真剣に取り組み、宗教者として私達は何が出来るかということを議論しました。
 こうした出会いは、世界の宗教史上まれなことです。極端な言い方をすると、世界平和を求めて開かれた世界宗教者平和会議は京都会議が初めてだと言っても過言でありません。
  宗教のそれまでの歴史は、キリスト教が主なる市民権を得、東洋の宗教はランクが下に見られていたようです。ですから、キリスト教国の先進国では、東洋の宗教を相手にしていなかったかも知れません。
 それが世界の宗教代表者が京都に一堂に会し、世界の平和の問題について同じ目線で協議したのです。それは、歴史的な出来事だったのです。その席上に初代教主さまは出席されました。
  初代教主さまは、元々宗教学者ですから世界の宗教史の中で、世界の諸宗教の代表者が洋の東西の壁を越えて一堂に会し、平和の問題について語り合うということの意義については、一般の方々より認識度が高かったと思います。そして、そのことの意義も、他の方々よりは充分理解されていたと思います。
  初代教主さまは、会議の席上で、宗教者は言葉だけで平和を語るのではなくして、具体的な行動を起こして平和の問題を解決していくべきである。この会議では、その方策を考えようじゃないか。例えば、平和を祈る日を定め、その日には今日参加した世界の宗教代表者が各地で、平和を祈り、平和のための行動を起こすということを約束して、それを皆で実行しようじゃないか、と発言しましたが、日本代表者の方々も含めて世界の宗教代表者にも充分な理解を得ることができずに終わってしまいました。
  大和山は当時、東北地方の道の奥の山中にひっそりと宗教共同体を形成して宗教活動をしていましたから、歴史こそ新しい宗教団体の中では古い方なんですが、名の知れた教団ではありませんでした。ですから、世界から集まった諸宗教の代表者の方には、あの田舎者は一体何を言ってるんだろう、というような受け止め方しかされなかったのではないかと、悔しい思いもされたようです。
  そして、それから四年後の一九七四年八月下旬から九月上旬にかけてベルギーのルーベンで、第二回世界宗教者平和会議が開催されました。今度こそはと願いをもって参加された初代教主さまでしたが、会議では平和に対する抽象論だけで議論が終始してしまいました。これではせっかくの世界宗教者平和会議が単なる空論を披瀝する場になってしまう、という危惧感から勇気をもって発言に立ち、「この次にこの世界会議に集まる時は、今日参加した人達が、いつどこで、このような平和活動をしてきたという活動報告をしあう場にしようじゃないか」と呼びかけました。しかし、その時も、行動する宗教者を目指す声は挙がらずじまいでした。
  初代教主さまは、世界の宗教者のこの有様に落胆され、「世界の宗教者を頼むに足らず、まず隗より始めよ」で、自分から平和活動を始めようと決意され、ルーべンを後にしました。
 そして、帰国の飛行機の中で、「一食を捧げ 一欲を節する運動」を思いつかれ、この年の十一月の越年感謝祭に教祖さまご神化(昭和四十一年十一月十八日)の十八日を「世界平和祈願の日」と定め、「いつでも、どこでも、だれでも、いつまでも」できる平和活動として、「一食を捧げ 一欲を節する運動」を提唱されたのです。
  大和山では、初代教主さまが小松風先生時代に、身欲の信仰から奉仕の信仰へと、信仰の質を換える方策として、「一日一円は神のため 一日一円は国のため 一日一円は人のため」という三奉行の活動を信者に呼びかけ、ほぼ定着していた土台がありましたので、それを更に拡充した活動として捉えて貰えれば、「一食を捧げ 一欲を節する運動」は十分実行に移せるというお考えがおありのようでした。人生は、自分のためだけでなく、神さまのために、国家・社会のために、そして人のためにという活動を、そのまま世界平和活動として拡大させ、世界の宗教者に応えていこうとされたのです。
  具体的には、十八日の朝の一食を抜いて、しかも教団に意味ある教祖さまご神化の日の十八日の朝の一食を、平和のために捧げようというのです。その抜いた朝の食事代を貯金し、それを一年間続け、一人一人が翌年の感謝祭に持ち寄り、その浄財を一つにして平和のための行動を起こそうと呼び掛け始まったのが「一食を捧げ  一欲を節する運動」だったのです。それは、自分達が空腹を経験することで世界の飢餓の人達の苦しみを我が苦しみとし、世界中で苦しむ人々と共に支え合っていこうという呼びかけでした。そして、「もろもろの人の悩みをわがことに思うぞ教のはじめなりけり」「一椀の糧をとるべき身なりとも神に尽くすべきつとめありけり」というご神歌の精神が平和運動の原点とされたのです。
  一年目の昭和五十年には、千九百万円余の浄財が集まりました。二年目の同五十一年秋には二千四百万円余が集まりました。そして、昭和五十一年・一九七六年十一月二十五日から三十一日まで、シンガポールで第一回アジア宗教者平和会議が開催されました。
  その会議で、初代教主さまは、ルーベン会議後に始めた世界平和活動「一食を捧げ 一欲を節する運動」を始められた経緯とその成果を、日本宗教界の代表者の一人として活動報告をなさいました。
 「一食を捧げ 一欲を節する運動」の世界平和活動を始めたことを、初代教主さまの十三年先輩で同郷の日本薬学界の重鎮である石館守三先生が聞き及び、初代教主さまと東京でお会いになり、その浄財のより有効な使い道を提案された事がありました。石館博士は、「世界からライ病を撲滅する運動」に取り組んでおられました。その仕事に、「田澤先生も手伝って欲しい」ということでした。田澤先生の浄財は、信者一人一人の真心が籠もっているお金だから一円たりとも無駄にできない。であれば、アジアから、世界からライ病を撲滅する活動を展開している私が理事長として活動している笹川記念保健協力財団の事業に手伝って欲しい、とお願いされたのです。海外援助というのは、その窓口を間違えば、せっかくの浄財も浪費される場合もあるので、確実に支援者に届き、その目的のために活用できる団体と連携してやった方がよいということでした。初代教主さまは石館博士が敬虔なクリスチャンであることはご存知でしたし、青森市内の石館薬局の長男であり、そして同じ旧制青森中学校、東京帝国大学の先輩でもあるということから、協力していくことを約束されたのです。
 ですから、一回目に集めた中から千七百十六万円の浄財は、WCRP日本委員会を通して韓国の国立救ライ研究院医療器具購入資金として寄付されたのです。二年目の浄財は、邦貨で二千万円余を保有していることをシンガポールのアジア宗教者平和会議で活動報告しましたら、その時、会場がどよめきました。朝の一食を抜いて集めた浄財が二千万円余もあるということに、アジアの宗教者は驚いたのです。
   京都会議、ルーベン会議に参加され、何か行動を起こそうと訴えても世界の宗教者は誰も賛同しなかったので、それではまず隗より始めよと奮起して始めた「一食を捧げ 一欲を節する運動」による平和活動は、一年目に千九百万円余、二年目に二千万円余もプールでき、平和のために活用しているという日本宗教者のアイデアとその行動力に、アジアの宗教代表者はもちろん日本の宗教代表者からも驚きと賞賛の声が挙がったのです。思えば、初代教主さまにしてみれば、六年間の苦渋であったと思います。
  本当に初代教主さまの発表で会場はどよめいたのですから。今度は、二千万円余のお金でどんな平和活動をするのだろうかと期待感もあったのかも知れません。但し、はっきりしたことは、平和は、理論を述べ、議論しても生まれるものでないと理解されたということです。具体的な行動を起こさないと平和への道は開けてこないということです。その訴えが大反響を呼んだのです。
  第一回アジア宗教者平和会議(ACRP)の事務局は、日本委員会が中心メンバーとして加わり、運営されていました。そこで、事務局は、今回の第一回アジア宗教者平和会議の目玉を何にするかということで思案していたようです。そこへ、大和山の平和活動の成果として、邦貨で二千万円余があるという活動報告に心が動かされた様です。
  この頃は、ベトナム戦争終結で南ベトナムの人達が怖れて南シナ海に逃れていくケースが頻繁となり、シンガポール港にも漂着しているという情報が事務局に入り、事務局では、彼らと会うために何人かの代表者が同行し出掛けて行きました。
 その後で、同会議の事務局の専門家スタッフ(相談役)として加わっていた、当時、学習院大学教授だった飯坂良明先生から初代教主さまに相談の依頼があり、お二人での話し合いがシンガポールのホテルの一室で持たれました。飯坂先生の要件は、大和山で集めた浄財を南シナ海に浮かぶインドシナ難民・ボートピープルの救済に当てて貰えないだろうかという要望でした。
  初代教主さまは、そのお話を聞かれ、承諾なされました。話はまとまったのです。アジア会議の最終日の全体会では、会議の総括として「シンガポール宣言」及び「インドシナ難民救援に関する決議」を発表し、採択されました。その後に難民救済活動を継続していくため、ACRPに継続機関を設置することが決定されました。その時、初代教主さまがすぐさま、難民救済募金の呼びかけを全体会場に訴えられたのです。勿論、出席者の大賛同を得て、会場募金は大成功しました。会議終了後には国際委員会が開催され、インドシナ難民救済が緊急課題として取り上げられました。数百万人の難民を救済するには、大型船など二隻必要でその経費として十二万ドルが必要であるという。そこで、その経費捻出をどうするかで日本委員同士での話し合いとなり、平和開発基金から拠出することで合意したのです。そして日本は、邦貨で千八百万円を負担することを申し出たのです。そのお金が、飯坂先生と教主さまとの相談事で決めた大和山の「一食を捧げ、一欲を節する運動」の浄財だったのです。それが引き金となってアメリカ、カナダの委員からも寄付の申し出があり、救援活動は世界大に広がっていきました。
  世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会平和開発基金運営委員会は、大和山が一九七四年秋から始めた「一食を捧げ 一欲を節する運動」が契機となり、禊教管長の坂田安儀先生と初代教主さまが「祈りから行動へ」という平和活動を提唱したことによって、一九七五年一月にWCRP日本委員会「平和開発基金運営委員会」が発足したのです。このことによって日本宗教界の平和活動は、開発途上国への援助活動へと続く道を開いていくことになったのです。
  このことについては、『WCRP世界宗教者平和会議三〇年史』の一五八頁に、「一食を捧げる運動、平和開発基金の発足」(七五年一月)というタイトルで記録されてあります。その中には、運動の精神を、
 月に一度の断食、禁欲の日を設け、朝食でも昼食でも晩酌でもいい、その一食を抜いたお金を貯金して、WCRP日本委員会に寄託するというものだ。それは単に、物を捧げるという意味だけでなく、自分たちが空腹を経験することによって、世界の苦しみを感じ、苦しむ人々と支え合っていこうという呼びかけでもあった。
と解説しています。
 配付したプリントの「世界平和活動四十年 略譜」の年表に記されている「一九七六年 WCRP日本委員会へ『一食を捧げ 一欲を節する運動』(以下、「平和一食運動」と記す)の浄財寄付」は、WCRP日本委員会平和開発基金第一号の寄付で、これが「インドシナ難民救済資金」として充当されたのです。
 日本のボートピープル救済援助活動がきっかけとなり、ボートピープルの救援活動は世界各国へ連鎖反応の如くに広がっていきました。そして、世界赤十字社も取りかかるようになっていきました。これらの活動のきっかけは、大和山の「平和一食運動」の浄財がWCRP日本委員会の名で充当されたことがきっかけとなったのです。
 しかも、大和山という教団の名前でなく、WCRP日本委員会平和開発基金運営委員会という、日本宗教界の名で実施したのです。
 初代教主さまの、そこが視野の広いところなのだと思います。普通は、教団名で援助した方が教団のPRになるし、それによって教団の名を上げることになるのですが、それより日本宗教界の働きを世界に示すことが大切だとお考えになっていたのです。だから、日本宗教界の名で、世界の平和のために、アジアの平和のために、平和活動を推進なさってこられたのです。
  「平和一食運動」のスタートを切った翌年の昭和五十年・一九七五年秋からは、当時二代教主さまが幹事長を務められていた連合青年会が、初代教主さまの提唱された「平和一食運動」に呼応し、世界平和のために五所川原市でチャリティーバザーを開催しました。一回目の売り上げは、三百万円程度あったと思います。五所川原でのチャリティーバザーは、それから年毎に出店も増えていき、二千万円近い売り上げをコンスタントに出すように定着してきました。しかも、宗教界から各代表者が毎年、大和山の平和のためのチャリティーバザーに学べと、十名近い先生方がご来臨下さり、バザー会場を盛り上げて下さいました。
  チャリティーバザーの会場は、それから青森、札幌、帯広、室蘭、北見、盛岡、宮古、松島、仙台、宮城松山、本部と広がり、世界平和のためのチャリティーバザーは、全国的な広がりをみせてきました。
  やがて「平和一食運動」は、他の教団でも行うように広がり、その教団の意義ある日に、朝食または昼食を抜いて、共感共苦の心を体験することを通して平和の心を養いながら実践活動を行うように拡大されて行きました。ですから、「平和一食運動」は、今では、日本宗教界の平和活動であるということで、アジア及び世界の宗教界に知られています。
  但し、その先駆者は大和山です。初代教主さまが提唱された「平和一食運動」が先駆けとなったのです。
  初代教主さまは、京都会議、ルーべン会議と世界宗教者平和会議に参加され、具体的な平和活動を展開しよう、と呼びかけられても、その時は呼応する声を得られませんでした。そして、世界の宗教者頼むに足らず、まず自ら立ち上がろう、始めようと決意され、「平和一食運動」を提唱し、大和山教信徒の全面的な協力を得て、世界平和活動を起こしてきました。
  当初は、朝の一食を抜いて平和が来るなら、そんな容易いことはないさ、などと揶揄された声も耳に入ってきたこともありましたが、実践の継続に勝る力はなしで、一年に二千万円余の近い浄財の協力を得てゆく中で、これまで冷ややかな対応であった日本宗教界の人達も、「平和活動は大和山に学べ」という風潮を宗教界に席巻させていきました。
  「平和一食運動」は、それから一人歩きし、日本宗教界の平和活動として評価されるようになってきました。「祈りから行動へ」「祈りと共に行動を」という、「いつでも・どこでも・だれでも・いつまでも」できる平和活動として、民衆宗教の民衆の人達の平和の願いを結集させる平和活動として高く評価され、更なる広がりを見せ、胎動してきたのです。
 教団が一丸となって推進してきた「平和一食運動」は、時を経て日本の宗教界を動かし、世界の宗教界が日本宗教界の平和運動に学べという環境まで作り上げてきたと言っても過言ではないと、私は思っています。
 大和山チャリティーバザーの五所川原会場と青森会場へ、皆さんもボランティアで行くでしょう。特に、五所川原会場には、日本宗教界の指導者が来賓として参列していますよ。五所川原会場は、チャリティバザーの原点・出発点の会場ですから、「大和山の平和活動に学べ」ということで来て下さいます。そうした歴史を五所川原会場は背負っているのです。そのことを理解し、ご奉仕して来て下さい。
 現在、「平和一食運動」による世界平和基金は、特定非営利活動法人国際連合世界食糧計画WFP協会の救援活動に対する支援と、認定非営利活動法人テラ・ルネッサンスの「ウガンダ元子ども兵社会復帰プロジェクト」を支援する活動に対して、継続的に行っています。他に、東日本大震災被災者救済への支援など、その都度救援を必要としているところへの義捐金などにも広く活用されています。
 皆さんが毎月十八日に抜いている朝の一食は、誰かのために、今必要としている人達のために、確実に役立っているのです。皆さんの協力によって集められている世界平和基金は、確実に世界及びアジア、そして国内など、支援を必要としている人達へ届けられる組織へ寄付され、活用されているのです。このことを、この機会に理解して下さい。
                               ( 2014.06.20)