見えざる神の手の中の松風塾高校                  

  十二日には、松風塾高等学校開校四十周年記念式典を無事終えることができましたので、大和山本部の松華さまにご挨拶に行きました。その時、松華さまは、非常に感激されて、「素晴らしい式典をありがとうございます」と、御礼をおっしゃって下さいました。来賓としてご参列下さり、式典の運びをご覧になり、そのように感じていただけたことが、本当に有難かったです。また、当日来賓として参列下さった青森県下の公立高校の校長先生方、学校法人の理事長先生や校長先生方も、式典が終了しお帰りになる際、異口同音に「素晴らしい式典でした」と感激していらっしゃいました。本校は、他の私学の学校と違って、少人数教育ですので、式典規模も小さく、参列者も四百名程度でしたから、シンプルな次第での式典でしたが、それでも参列した生徒の皆さんの態度や姿勢、挨拶がはつらつとして、新鮮な印象を強く感じて下さったのでしょう。「生徒さんの凜々しさに感動しました」ともおっしゃった方が随分といらっしゃいました。有難かったです。それに、桜庭和さんのステージも素晴らしかったですね。歌とトークの絶妙な演技が会場を一体化させ、更に感動を深めてくれました。久しぶりの「涙の式典」で、感動に満ちた式典でした。先生方も一生懸命準備して下さり、式典の運びもスムーズで、松風塾の力を参列した皆さん方に感じていただけました。教師、生徒が一丸となって成功させた開校四十周年記念式典でした。皆さんのご協力に心から御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
 式典の後に、本部神集閣大会議室で教団関係者と学園関係者だけの祝賀会を持たせていただきました。その中で、この度教団総務に就任された木造教区長の山谷吉信・栄田支部長が、生活学苑大和山松風塾を代表して挨拶を述べて下さいました。山谷氏は大和山松風塾第四期生です。
 その挨拶を聞いていてびっくりしたのは、山谷吉信氏は昭和元年に松風塾高等学校の校舎の前身である旧制木造中学校を建てた大工の先達・山谷冨士太郎氏の孫に当たる方だったのです。山谷冨士太郎氏は、大和山信者でした。その校舎はやがて時を経て、戦後に木造高等学校となりました。県立木造高校は、昭和四十八年に新校舎建築の運びとなり、これまで使用されてきた校舎が廃校になるということでした。それを伝え聞いた創立者田澤康三郎先生は木造高校旧校舎の払い下げを青森県に申請し、木造町から払い下げを受けることになりました。吉信氏の父・重勝氏は、祖父冨士太郎氏の長男で、木造高校解体工事の際は冨士太郎氏の片腕として指揮していました。重勝氏は、校舎の全構造を父冨士太郎氏から教えて貰い、作業に従事していました。解体を終えた後に、現在地に移築する際、祖父冨士太郎氏から、棟梁に重勝氏が当たるように命じられたそうです。このようにして、山谷冨士太郎、山谷重勝、そして、山谷吉信という三代に亘っての松風塾との関わりの話にはびっくりいたしました。
 この話を山谷吉信氏の挨拶で聞き、「校舎耐震工事・改修工事」募金活動を松風塾高等学校開校四十周年記念式典の四月十二日をもってスタートさせること、生活学苑大和山松風塾開塾から松風塾高等学校への開校の経緯、そして木造高校校舎を移築改築した本校の校舎を後世に遺していくための耐震工事等など、松風塾を巡るすべての動きが、み神の経綸のままにあるという感動で全身が震えるほどの感激を覚えました。その、山谷吉信氏の挨拶を紹介します。
     松風塾高等学校校舎移築について
                        生活学苑大和山松風塾第四期生
                        木造教区栄田支部長  山 谷 吉 信
 大和山学園松風塾高等学校理事長田澤昭吾先生から木造高等学校の払い下げによる校舎の解体と移築について、知っている範囲でお話いただけないでしょうか、との連絡がありました。そこで、祖父や父から聞いていた話を思い起こしながら書くことにしました。よく整理をしてみると、多岐にわたって神さまの経綸があったように思われてなりません。
 私の祖父、山谷冨士太郎(一八八九年・明治二十二年十月二十六日生、昭和五十一年十五日永眠)と父、山谷重勝(一九三五年・大正十年九月六日生、平成二十一年二月二十日永眠)は大工でありました。
 祖父は大工の棟梁として大和山と深いかかわりを持ちました。
 最初のかかわりは、旧木造道場として木造町松木家の住宅を改築されたのが始りだと思います。その後、木造町から紫雲寮が移築されたのを機に、初代教主さまの信頼をうけて最後の錦水寮の完成まで長い間棟梁として働いておりました。
 父・山谷重勝は、第二次世界大戦で神さまに九死に一生を救われた体験を持っています。(この体験記は大和松邦先生の著書?大慈余光?の第一巻三百二ページに記載されています)
 父は、教祖先生との約束で五十年余り巡講者として奉仕させていただきました。
 さて、校舎移築についてですが、ふってわいたように青森県立木造高等学校が移転新築されることになり、初代教主さまはその旧校舎の払い下げを受け、大和山に移築して高等学校を開校することを決意されました。
 ある日、木造道場にお出なされた時にこのことを話され、ついては校舎移築に当たって適任の大工さんはいないだろうかと、当時の木造支部長松木静四郎さんに相談をされたそうです。「それじゃあ、栄田支部の山谷冨士太郎さんに相談してみてはどうでしょうか」となったようです。早速、祖父に木造道場まで来て貰い、木造高等学校の解体と移築について相談されたようです。
 祖父は、「あの校舎は、私の師匠が請負をし、私が先達として建築した校舎なので今でも記憶してあります。木材をどの位使用したか、釘は九百六十貫(三千六百キログラム)程使用したし、合掌の組立てはどのようにし、またボルト等どれ位使用したかは今でもわかります。そして、どこから解体していったら安全に作業ができるかは、今でも頭の中に設計図は残っているから大丈夫です、私でよければご奉仕させていただきます」と、いうことになったようです。
 それにしても初代教主さまは驚いていたようです、神さまのまさに経綸というのではないでしょうか。
 祖父・山谷冨士太郎にとっては、棟梁としては大和山に最後の奉仕です。
 初代教主さまは、いくら何でも解体作業が終了するには三ヵ月位はかかるであろうと考えられていたようです。それが何と十日程で解体が終わったというのです。無論、県内の大勢の信者さんのご奉仕があったことは言うまでもありません。ほぼ四十日程で、すべての作業は終了した、と聞いております。
 このことも、初代教主さまは驚いておったそうです。実は、祖父はこの頃高齢でもありましたので息子である私の父・重勝に、「私はこの校舎を復元するのには行けないが、あとはお前が棟梁として建築するように」と申し送りをしていたそうです。
 こうして山谷重勝を棟梁として、また、当時の豊川松竜先生が陣頭指揮され移築工事が始まったようです。校舎は、土台がかなり腐蝕していたため、皆さんもご存じかと思いますが、初代教主さまは、鉄道の枕木は栗の木で出来ており、非常に腐蝕に強く頑丈であるということを知っていらしたので、復元に当たり土台はすべて栗の木にされた、と私も聞いております。
 さて、こうして思い起しながら書いてみますと、幾度となく神さまのお見通しというのか、神さまのみ経綸とでも言うのでしょうか、つくづくすごいことだと思わずにはいられませんでした。
 祖父も父も、今は光霊殿に合祀されています。
 松風塾高等学校開校の際に、創立者田澤康三郎先生の元で最初に副校長を務めたのが旧制木造中学に五年間通われた福士勇三先生でした。その木造町から第一期生として入学してきたのが、今の校長の重責を負っている成田博昭先生です。
 そして、山谷吉信氏は、故松木静四郎氏経営のお店「松勘」に定年までの四十三年間勤務されていたというのです。山谷吉信氏に大和山松風塾卒業生を代表して挨拶をお願いしましたことから、今話をしたようなことがわかり、不思議な縁の繫がりを強く感じ、み神活き給う、守り給うと強く感じ、ただただ有難いという感謝の思いに包まれました。
 生徒の皆さんは、松風塾は、み神の経綸の中で生まれ、育まれているということを感じ取って下さい。この事実を力にし、励みにし、一層勉学に務め、「国柱地塩」という建学の精神を果たしていける人間に成長して下さい。
                               ( 2014.04.25)