「教科書検定で消えたマッカーサー証言」を考える

 
      
   今日は皆さんに、資料を二つお渡ししました。一つは、六月二十三日の産経新聞で、「土曜日に書く」という欄に掲載された石川水穂論説委員の『教科書検定で消えた「マ証言」』です。もう一つは、六月二十五日の産経新聞のコラム欄に掲載された『インド人映画監督「インパール作戦」題材に撮影・「真の日本兵」伝えたい』の見出しの記事です。
  近年、一般紙でお目に掛かることが少ない視点の話題なので、今日は、このことをとりあげ、お話ししたいと思います。
   『教科書検定で消えた「マ証言」』には、東京都教育委員会作成の教材が都立高校に配布され、四月から必修となった日本史の授業で使用されることになったということが記されています。その教材の中には、「第二次世界大戦と太平洋戦争」の章があり、石川氏はその中に記されている「ハル=ノートとマッカーサー証言」というコラムに注目しました。 マッカーサーは、極東国際軍事裁判(通称、東京裁判)を開廷した連合国軍最高司令官です。そのマッカーサーは、昭和二十六年五月三日、米上院軍事外交合同委員会の聴聞会で、日本がアメリカに対して開戦した理由を証言しています。教材のコラム欄には、このことについて「日本が開戦したことについて『in going to war was largely dictated by security』と証言しており、この戦争を日本が安全上の必要に迫られて起こしたととらえる意見もある」と記してあるそうです。
 日本史の授業の副教材として使用する教材に、マッカーサーが昭和二十六年五月三日に、米上院軍事外交合同委員会の公聴会で証言した内容を、コラム欄でこのように掲載してあるというのです。驚きと共に、こういう時代にようやくなったかという安堵感を感じました。
私の編んだ小冊子『憲法を問う』の四十二〜四十三頁には、マッカーサー証言について書いています。二年生は二学期の宗教の時間で、テキストとして使用し、東京裁判と憲法の問題について学習します。
 マッカーサー証言については、公立高校の日本史で学ぶのは難しいと思います。教科書に記述されていないからです。
 マッカーサー証言の邦訳では、「in going〜」 の前に「Their purpose,therefore,」の語があり、「したがって彼ら(日本)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった」というのが本来の訳です。教材であえて、そうしなかったのは、生徒に考えさせるためだそうです。
 石川氏は、今回の「土曜日に書く」には触れていませんでしたが、マッカーサーは、昭和二十五年十月十五日、トルーマン大統領とウェーク島で会談し、「東京裁判は誤りであった」と告白しています。これもマッカーサー証言として知られています。日本の教科書に掲載されていないのは、文科省の姿勢がおかしいからだと思います。
   連合国軍最高司令官だったマッカーサー元帥は、東京裁判を開き、当時の日本の最高指導者二十八名に対して、「昭和三年一月一日より昭和二十年九月二日に至る期間」に「共通の計画または共同謀議の立案または実行に、指導者・教唆者または共犯者として参画した」、ということでA級戦犯として訴追しました。そして、東條英機ら七名は、絞首刑にされました。また、B・C級戦犯として五千七百名が起訴され、約千名が処刑されました。他に、裁判中に病死、自決、事故死した人は百五十三名で、計千百数十名が死亡しました。しかも、明治以降の日本の対外的歩みはアジア侵略の歴史であるとし、勝者が敗者日本を「平和に対する罪」として裁いたのです。全く一方的にです。
  連合軍の占領政策下にあった日本を下目に見ながらアメリカは、一方的に作成した太平洋戦争史をラジオで繰り返し放送し、日本が如何にアジア諸国に対して残虐非道なことを繰り返してきたかという虚報を流し続けました。日本人の洗脳を図ったのです。
  東京裁判では、日本軍の指揮官・兵士を戦犯として裁いた他に、自虐的歴史観を日本人に洗脳しました。戦後六十七年を経ても、日本は未だにその自虐的歴史観を引きずっているのです。昭和二十五年十月に「東京裁判は誤りであった」というマッカーサーの告白がありながらです。更に、翌二十六年五月にマッカーサーが米上院軍事外交合同委員会で「日本は自衛のための戦争をした」と証言したのにも拘わらずです。東京裁判史観を継承している文科省の姿勢は、全く腑に落ちません。何かおかしい、日本の戦後史だと思います。
  石川氏は、『実は、これらの記述は小堀(桂一郎)氏らが執筆した高校教科書「最新日本史」(明成社)の昨年度検定前の白表紙本にもあった。しかし、いずれも「誤解するおそれがある表現である」との検定意見が付き、執筆者側は2つとも削除した』と、本稿で記していました。『文部科学省教科書課は「記述が不充分で、誤解を招きかねないと判断した」と説明している』というのです。
  そして、石川氏は、「米議会でのマッカーサー証言などは、広く知られていないが、明白な事実だ。これらを知ることにより、生徒は先の戦争をより多角的にとらえることができる。事実を教科書に載せることがなぜ誤解を招くのか。文科省からは明快な説明が得られなかった」と、文科省に苦言を呈していました。
  石川氏に言わせれば、「誤解を招く」という危惧感を示しているという文科省は、「約70万人が朝鮮総督府の行政機関や警察の圧迫などによって日本本土に強制連行され、過酷な条件で危険な作業に従事させられた」(東京書籍「日本史A」)とか、「数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、鉱山や土木工事現場などで働かせた」(山川出版「詳説日本史」)という、「事実かどうか疑わしい」記述を、検定でパスさせていると指摘しています。
   しかも、これらについては、外務省が昭和三十四年に発表した在日朝鮮人の実態調査を資料にしながら、『日本内地に居住していた朝鮮人は昭和十四年から二十年の終戦直前までの六年間で、百万人から二百万人に増え、その増えた百万人のうち七十万人は日本に職を求めてきた渡航者と出生による自然増加で、残りの三十万人の大部分は鉱工業や土木事業の募集に応じて自主的に契約した人達だ。
  ほとんどの朝鮮人は自由意思で朝鮮半島から日本内地に渡ってきた。すべて「強制連行」だったとする記述は誤りである』と論証しています。
   また、日本の占領政策によるベトナムでの餓死者「二百万人」、マレー半島での「華人虐殺数万人」といった誇大な数字が教科書で独り歩きしていることにも警告を発しています。
   更に、石川氏は、昭和五十七年夏に問題となった、『教科書で、日本の中国への「侵略」の記述が「進出」に書き換えられた』と、マスコミが一斉に報じたことによって、中国や韓国から外交ルートを通じて抗議が殺到したことを取りあげ、「しかし、そのような書き換えはなかった」と解説しています。このことも見過ごせない事実だと思います。
  にもかかわらず、当時の鈴木善幸内閣の宮沢喜一官房長官は、「教科書の記述を是正し、検定基準を改める」という談話を発表しているのです。当時の政府自民党与党の官房長官が、どうしてこんな重要な外交に関わることについて、将来の日本の進路に関わることについて、事実も確認しないで、軽々しく無責任なことを言えるのでしょうか。国民の一人として理解できかねます。
   その結果、この「宮沢談話」を受けて近隣諸国条項が教科書検定基準に加えられてしまいました。そして、『「侵略」「強制」の表記に意見を付けることが難しくなり、中国や韓国などに過度に配慮した教科書検定が行われるようになったのは、それ以降である』と、石川氏は「宮沢談話」を指弾しています。当然だと思います。
 石川氏は、今年は、その教科書誤報事件から三十年ですから、ここらで「マスコミの教科書報道や検定のあり方について、改めて再検証が必要ではないか」と読者に呼びかけています。共感します。
※近隣諸国条項とは、日本国の教科書用図書検定基準に定められている「近隣のアジア諸    国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮       がされていること」。
 前述の「ハル=ノートとマッカーサー証言」のコラムの「ハル=ノート」については、「土曜日に書く」から、次のように拾いました。
  「ハル=ノートの原案を作成した財務省特別補佐官のハリー・ホワイトは、ソ連のスパイの疑いがあるとして非米活動委員会に出席しており、ハル=ノートの作成にソ連が関わっていたとする意見もある」。
 そして、石川氏は、東京都教育委員会作成の教材に記されてあるそのコラムに対して、「ハル=ノートは1941(昭和16)年11月、日米交渉でハル米国務長官が日本に中国と仏領インドネシアからの全面撤退などを求めた最後通告だ。ホワイトは48年、米下院非米活動委員会でソ連のスパイ容疑を否認したが、米側の暗号解読記録などから、ソ連に通じていた疑いが濃厚とされる」と解説しています。
  日米開戦の裏には、ソ連の思惑が働いていたということだと思います。マッカーサーが昭和二十六年五月三日に米上院軍事外交合同委員会で、ラッセル委員長の質問に答えたマッカーサー証言、「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」は、同委員会公聴会の記録のむすびの所感のところできちんと記録されているそうです。そのことは、小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』に編まれている「米国上院軍事外交合同委員会に於けるマッカーサー証言」のところで、当時の新聞記事に掲載された内容だとして記述されています。貴重な記録だと思います。
  大東亜戦争終結後のアジア情勢は、米ソを機軸とした東西問題で世界が二分化し、両陣営の対立による戦争が続いてきました。そして、多くの血が、特に朝鮮半島、東南アジアで流されてきました。そして、一九九一年十二月二十五日、ソ連崩壊となり、東西問題に終止符が打たれました。しかし、アジアの今は、新たに中国の強大な軍事力の台頭で平和と安全に不安を抱えています。
  米上院軍事外交合同委員会でマッカーサーが証言した「アメリカ誤てり」の懺悔は、戦後の共産主義国家群台頭となって現れました。そして今は、社会主義国家・中国の巨大な軍事力がアジア及び世界への侵出となり、その不安感がアジア諸国を包んでいます。マッカーサーが証言した「アメリカ誤てり」の懺悔は、今も生きて世界を不安に陥れているのです。
 日本は、大正末期から昭和初期の時代にかけて迫っていた赤化謀略の脅威に対して防共政策をとってきましたが、アメリカ、イギリスにはその真実性が届きませんでした。だから日米開戦・大東亜戦争、そして、ヤルタ会談、ポツダム会談へと歴史は動いたのでしょう。ヤルタ会談・ポツダム会談はいずれも米英ソによる戦後処理の密談と会談でした。
 今、「ハル=ノートの原案作成者ハリー・ホワイトはソ連のスパイの疑いがある。ハルノート作成の裏にソ連が関わっていた」という説を聞き、当時の歴史を冷静に眺めてみると、「なるほど」と納得し得るものを感じます。
    今日の話で、確認しておきたいことは、マッカーサー証言である「大東亜戦争は防衛のための戦争だった」「東京裁判は誤りであった」ということに視点を当て解説するマスコミ人が出てきたということです。この、時の動きが、これまでの戦後史と異なった流れとなって欲しいという期待感を、私は抱いています。ですから、この兆しに応援歌を送りたいと思います。皆さんも、マッカーサー証言を記憶に刻み、昭和の時代の歩みを勉強して下さい。
    産経新聞六月二十五日付朝刊には、インドの青年監督が「インパール作戦」を題材にした「マイ・ジャパニーズ・ニース」(私の日本人のめい)という映画の制作を進めている、というコラム記事が掲載されていました。その青年監督の名はモーヘン・ナオレム氏(34)です。
  現地で取材中のナオレム監督は、「(インド北西東部)マニプール州の人々には日本人と共に戦った記憶がある。日本は今も多彩な援助をしてくれており、日本人に親愛の情を示したいと思っていた」と述べています。そして、「欧米では日本兵の残虐行為や犯罪に関する話が書き立てられているが、日本兵はもっと気品があり親切な心をもった人々だった」と話しています。
  撮影に懸ける思いとして監督は、「日本兵の記憶が徐々に人々から失われている」現在、「まだ知られていない話を集めて映画で伝えたかった」と話しています。
  韓国や中国では、戦前・戦中時代の日本に対して「侵略国家日本は虐待・虐殺・略奪を繰り返した」という恨み節ばかりを聞くが、インドの青年監督は「気品にあふれた真の日本兵の姿を伝え、現地の人々の記憶に残るエピソードを紹介したい」というのです。
  真の日本及び日本人の姿が、マッカーサー証言と映画「マイ・ジャパニーズ・ニース」などの普及によって国内外で認識されていって欲しいと思います。こうした動きに勇気を貰って、日本を護っていきましょう。
 
※参考までに、インパール作戦について記しておきます。
一九四四年、日本軍は局面打開を図り、連合軍側の中国への補給路を断つために実行されたインド進攻作戦をインパール作戦といいます。この作戦には、英国からの独立を掲げたインド国民軍数千人も参加しました。日本軍は、ビルマ(現ミャンマー)から進攻しましたが、現地の地形は険しい山脈と谷が続く密林地帯で、補給路を確保しないまま強行するという無謀な計画のため敗れ、多くの戦死者がでました。退却路は、戦傷や疾病、飢餓で死者が続出して死体が連なり、「白骨街道」と呼ばれたそうです。

謀な計画のため敗れ、 多くの戦死者がでました。退却路は、戦傷や疾病、飢餓で死者が続出して死体が連なり、「白骨街道」と呼ばれたそうです。
                       (2012.7.6)